お江戸のベストセラー

方言修行むだしゅぎょう 金草鞋かねのわらじ江之島鎌倉廻えのしまかまくらめぐり

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金沢・能見堂

金沢かなざわ能見堂のうけんどう

金沢は、六浦の庄のうち瀬戸橋から東のあたりをいう。この地は風流のところで八景の眺め言うことなし。
ここに、金沢山きんたくさん称名寺しょうみょうじという真言宗の大寺がある。金沢文庫の跡は当寺の境内の阿弥陀院の後ろになる。青葉の楓、西湖の梅、普賢象ふげんぞうの桜は、みな境内の名物である。
能見堂は称名寺の西北にあり、地蔵院という。ここには巨勢金岡こせのかなおかの筆捨て松があり、金沢八景を一目で見わたす景勝の地である。

狂歌

ふうけいは のうけんどうに ふですてし
まつしまにさへ おとらざりけり

風景は能見堂に筆捨てし
松島にさえ劣らざりけり

旅人「なるほど、よい景色だ。わしが前に安芸の宮島へ行ったとき、宿屋の二階でひとり、ちょうどこのように景色をながめて酒を呑んでいると、宿の女房で年頃二十四、五の美しいやつが、十二、三ばかりになる娘をつれて来て言う。
『あなたは先ほど、うちのおなごを三味線の糸を買いに使わしましたが、三味線をお弾きなさるのでしょう。わたくしも三味線は大好きでござります。なんぞ弾いてお聞かせくださりませ。』
その愛嬌は、こぼれるばかり。ここで、おれが三味線を弾けばおもしろかろうが、根っからこっちは三味線は知らぬものだから、いろいろ断りを言っても聞かず、
『なに、ご存知ないことがござりましょう。三味線の糸を買いに使わしたからは、ぜひともお願いします。』
とせまってくる。こんな困った事はない。なるほど、娘にたのんで三味線糸を買いに行かせたのは、わしの入れ歯をつないだ糸が切れたから、その代わりにするためだが、まさか色気もなくそうも言えず、
『あの糸は、脇差がガタガタするからそれを留めるのに使った。こよりでは切れるから、あの糸で鯉口こいぐちを縛ったのさ。』
と言ってごまかしたが、そこにいる娘っ子が、
『なに、わしがさっき見たら、このお客さまが、あの糸で入れ歯をつないでござった。』
と、その娘に台座後光ぶちまけられてしまい、わしは、かみさまの手前まことに面目なくて、わしが侍なら腹でも切るところでした。」

注釈

巨勢金岡
平安時代の宮廷画家。能見堂からの絶景をうまく絵にすることができず、松の根元に筆を投げ捨てたという伝説がある。
その伝説の残る筆捨て松は、戦時中に切り倒されてしまったようです。
鯉口
刀の鞘の口。
江戸時代、町人農民でも、旅をするときなどは護身用に脇差を差していた。武士の特権は、長刀との二本差し。
台座後光ぶちまけられて
成句「台座後光を仕舞う」のカジュアルな言い回し。仏像から台座や後光を外すことで、面目なしの意。