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風流志道軒伝ふうりゅうしどうけんでん

原文(巻之五)

風流志道軒伝 巻之五 13

はなづむ時は大にがいあり。汝人情を知[ら]んがため、諸国をめぐる其内にも唐土もろこしにて宮中に入[り]官女くわんぢよの色におぼれしゆゑ、羽扇うせんを焼[か]れて難儀をせり。又人のたのしみ色欲しきよくに上なしと、汝常々つね/\思ひし故、女護によごが島へ遣[は]して遊男ゆうなんをこしらへ、色欲のあぢきなく人の命をそこなふ事を目のあたりに是をしめす。只浮世はゆめのごとし、汝わかしと思[は]んが、うか/\諸国をあるく内、はや七十余年の星霜せいそうたり。いざや汝にしめさんとて、鏡を取[つ]さしむくれば、かの浦島うらしまが昔にはあらで、今まで若かりし浅之進、八十ばかりの翁とへんじ、から

だには肉薄にくうすく、顔はしはのみにして、おとがい長く、鬢髭びんひげも皆ぬけて、おのづから法体ほつたい姿すがたをあらはしければ、我身ながらもあきれはて、あたりをうろ/\見廻せば、不思議や虚空こくう音楽をんがく[こ]え、光明赫灼かくやくとかゞやき、紫雲しうんに乗[り]て降るものあり。程なく浅之進が右の手にとゞまりたるを能[く]見れば、木にて作[り]たる松茸まつたけの形せし物にてぞ有ける。其時仙人ゑみをふくみ、汝が其手に持[ち]たるこそ、昔景清かげきよが難儀の時、清水の観世音身替[り]に立[ち]給ふがごとく、其方女護によごが島にて大勢の唐人どもと一度に死すべき命