お江戸のベストセラー

根南志具佐(ねなしぐさ)

原文(三之巻)

根南志具佐 三之巻10

▼開

我(われ)参(まいら)んといふもの一人(ひとり)もなき処(ところ)に、奥(おく)の方(かた)に鈴(すゞ)の音(おと)して、いとなまめける姿(すがた)にて立出(たちいづ)るを見(み)れば、頬高(ほうたか)く鼻小(はなちいさ)く、背(せ)はひきく腹(はら)ふくれたるは、まがふ方(かた)なき乙姫(おとひめ)に召使(めしつかは)るおはしたのお河豚(ふぐ)なり。諸(しよ)歴々(れき/\)の並居(なみゐ)る真中(まんなか)おめる色(いろ)なく立出(たちいで)、龍王(りうわう)の前(まへ)に畏(かしこま)り、最前(さいぜん)からの御評議(ごへうぎ)を一々(いち/\)あれにて聞(きゝ)やんすれば、大切(たいせつ)のお使(つかひ)に皆様(みなさま)こまりなさんすよし、龍王様(さま)の御案(おあん)もじが御笑止(おせうし)さに、姫(ひめ)ごぜの身(み)で大胆(だいたん)ながら、わつちが思案(しあん)を申上(まをしあげ)ます。世(よ)の人毎(ひとごと)にわつちをば、植木屋(うゑきや)の娘(むすめ)か何(なん)ぞのやうに、毒(どく)じや/\と云(いひ)ふら

され、腹(はら)が立(たつ)て頬(ほう)をふくらせば、おふく/\と笑(わらは)れしが、災(わざはひ)も三年(さんねん)と今度(こんど)の御用(ごよう)を承(うけたまは)り、君(きみ)が情(なさけ)に妾(せう)が百年(ひやくねん)の命(いのち)を捨(すて)、菊之丞(きくのぜう)が腹(はら)へ飛入(とびいり)て連来(つれきた)らんは、ほんに/\心(こゝろ)に覚(おぼ)へがありますと、 白(しろい)歯(は)をむき出(いだ)し口(くち)をすぼめて申上(まをしあぐ)れば、龍王(りうわう)は思案(しあん)の体(てい)。傍(かたはら)にひかえたる棘鬣魚(たひ)、鰭(ひれ)を正(たゞ)してしづ/\と立出(たちいで)、かやうに申(まを)せば物知(ものし)り㒵(かほ)に似(に)たれども、僕儀(ぼくぎ)は何(なに)によらず祝儀(しうぎ)の席(せき)をはづさず、仁義礼智のはしくれも覚(おぼ)へしとて儒者(じゆしや)の数(かず)に加(くは)へらるれば、かゝる折(おり)から差扣(さしひかへ)んも尸位素餐(しいそざん)にて候(さむら)へば、覆蔵(ふくぞう)なく申上(あげ)ん。