申楽といふ。其後の人、申の字の首と尻尾とを打切て田楽と号して、専行れけり。其後は田の字の口をとりて十楽などゝも名付べきを、 永禄の頃、出雲のお国といへる品者、江州の名古屋三左衛門となんいへる、まめ男と夫婦となり歌舞伎と名をかへ、今様の新狂言を出す。夫より千変万化に移かはり、江戸は江戸風、京は京風と分れ、物の名も所によりてかはるなり、浪華の芦屋道満が、伊勢座から名古屋の繁昌、安芸の宮島、備中の宮内、讃岐の金毘羅、下総の
銚子まで行渡らぬ所もなく、三歳の小児も団十郎といへばにらむことゝ心得、犬打童も、ぐにやつく事は冨十郎なりと覚ゆ。されば太平の世の翫、人を和するの道にして、孟子にいはゆる世俗の楽たりとも、また捨べきにはあらず。しかはあれども高貴の人、自其わざを学び、 烏帽子の諸も掛る顔を紅白粉にて塗よごし、 政をも談ずべき口にて、せりふなど吐出して、みづから楽とおぼゆるは、片はらいたき事なり。或愚人、我死て先の生は松魚になり