お江戸のベストセラー

人間一生胸算用にんげんいっしょうむなざんよう

10

人間一生胸算用 10

ここで、手がいないことにみなが気がついた。
「ほんに気がつかなんだ。女郎遊びに肝心の手がなくては、ならずの森の尾長鳥だ。」
〈気〉は、なるほどと思い、さっそく手を呼びにやった。

そもそも手というヤツは、みなにコキ使われるだけであまり楽しみ方を知らないヤツなので、呼ばれて来てはみたものの、ほかの者のように面白がることもない。ただ〈気〉が持っている鼻紙袋に手をつっこんで祝儀の紙花をバラまきまくり、たいこ持ちや茶屋女、若い衆たちをよろこばせている。

やがてとこが用意されると、口は〈気〉のそばにつきそって、ここがおれ(口)のうまさの見せどころと、あの手この手で口説けば、花魁おいらんもお大尽だいじんあつかいで初会から面白おかしくもてなしてくれた。
しまいには、熱くなってせまってくる。

花魁

「もし、誠の心があるなら彫り物をしなんしョ。」

〈気〉はデレっとしてその気になってしまい、手はあわれにも背中に『○○一心命』と古くさい銘を彫るハメになる。

女

「ジッとしていなんし! なさけねぇ。」

手

「好きで彫ってるんじゃねぇ。ああ、イタい、イタい! 灸だって熱くて据えたことがねぇのに……いっそ来なければよかった。名を彫って血かたまるとは、おれの背中のことさ。」

そのうち手はたいくつして、たいこ持ち相手に頭でけんを始めた。

「チェサャア!!!」
たいこ持ち「ゴウサイ!」

たいこ持ち

「むかし、関羽かんうは碁を打ちながら腕の骨を削らせたが、おまえはけんを打ちながら彫り物を入れるとは、豪傑、豪傑。」

口

「夕方からしゃべりっぱなしで、口が酸っぱい。しかし、おれ(口)から先に生まれたからは、シャレでは負けられねぇ。」

注釈

ならずの森の尾長鳥
「ならず」と下鴨神社の「糺(ただす)の森」をかけた言葉あそび。尾長鳥はオマケ、ホトトギスや天狗様などでもいい。
紙花
上質の懐紙。祝儀として配り、後で換金できた。
二人一緒に数を言い合いながら手を出し、両方の立てた指の合計を当てるゲーム(本拳)。指の数え方が独特で、7は「チェサイ」、5は「ゴウサイ」。なので、この勝負はたいこ持ちの勝ち。
関羽
中国、三国志の時代の有名な武将。毒矢が刺さった腕の骨を削って治療する間、平然と碁を打っていた豪傑。