お江戸のベストセラー

人間一生胸算用にんげんいっしょうむなざんよう

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人間一生胸算用 02

あるとき、京伝は草庵を出てどこへ行くともなくウロついていたが、ついうっかり善魂ぜんだまの隠れ家まで来てしまい、しかたなく、かた苦しい講釈を聞くハメになる。

善魂

善魂ぜんだま
「それ、人体というものは、たとえて言えば小さな天地のようなものじゃ。二つの目は月と日、肉は土で骨は岩石である。血は水で脈は水の流れ、毛や爪は草木、はく息とひる屁は風のようで、涙と小便は雨のようなものだ。声を発すれば雷鳴のごとく、体に住んでいるノミ、シラミは、天地に鳥や獣が住むのと同じこと。だからこそ、股ぐらの谷間には松茸が生じ、ヘソの下の海辺には赤貝も生まれるではないか。
ようするに、人というものは人体という小天地をつかさどる神にも等しく、この神の心しだいで、聖人や仏が生まれ、また、鬼や天狗も生まれるというわけじゃ。どうだ、わかるか? わかるか?」

京伝

京伝
「ハイハイ、ごもっとも、ごもっとも。」

善魂は、もったいぶった言いまわしで『博物志』の逆のようなことを言って、さらに聖人の教えまで持ち出して説明をはじめた。

「老子は『聖人セイジン其心ソノココロキョニス』と云う。
大学には『マズ其心ソノココロタダシウス』とある。
華厳経けごんぎょうは『唯一心』と説いて、
心こそ心迷わす心なり
心だに誠の道にかなひなば
という歌にもあるように、とかく大事なものは──心じゃ。
大事な心ほんだわら
などと、ざんねんなシャレを言ってしまうのも、やっぱり心の仕業なのじゃ。」

京伝

京伝
「ヘイヘイ、ごもっとも、ごもっとも。」

薬店の口上なら、ここは神農しんのうの人形を使うところだが、それではあんまり色気がないから神農しんのうの代わりに「新造しんぞう(若い遊女)」にご登場願ったのさ。

新造

注釈

博物志
古代中国、晋の張華が著した書物。善魂の講釈とは逆に大地を人体にたとえている。
「石為之骨 川為之脈 草木為之毛 土為之肉」
(石は骨であり、川は脈であり、草木は毛であり、土は肉である)
大学
儒学の入門書。
心こそ心迷わす心なり
「心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな」沢庵宗彭(たくあん そうほう)
大意:自分の心ほど、やっかいで思うようにいかないものはない。
心だに誠の道にかなひなば
「心だに誠の道にかなひなば いのらずとても神やまもらむ」菅原道真公 御神詠
大意:心に誠意があれば、祈らずとも神は守ってくれるはず。
大事な心ほんだわら
海藻の「ホンダワラ」と「本当だから」をかけたダジャレ。
神農の人形
神農は古代中国の伝説の帝王で医療の祖とされる。薬店では、内臓をあらわにした神農像を店先へ飾ることがあった。
→薬店の神農像