お江戸のベストセラー

人間一生胸算用にんげんいっしょうむなざんよう

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人間一生胸算用 05

「初ガツオ、初ガツオー!」
表をカツオ売りが通ると、耳がいち早く聞きつけた。口は食いたくてたまらなくなり番頭の〈気〉をアオれば、〈気〉はもともと浮かれたヤツなので、すぐその気になって〈心〉へ頼みこむ。

気

「モシ旦那、思いきって初ガツオをお買いなされぬか。初ものを食べれば、寿命が七十五日のびるそうです。」

しかし〈心〉は、決してなびかない。
こんな立派な心があれば、無二郎の行末も安泰で万代も栄えるだろうと、たのもしくなる。
耳に諸々の不浄を聞いて、心に諸々の不浄を思わず。』とは、まさにこのことである。

京伝

京伝
「なるほど、こう心がしっかりしていては、無二郎もハメをはずせねぇわけだ。」

気

「モシモシ旦那、清水の舞台から落っこちたと思って、買いませんか。」

心

「いやいや、おれは清水の舞台へ登ったと思って、買わない。」

口

「番頭さん、そこをおまえのお働きで、どうか、どうか、よしなにおたのみさ。」
口は、まるで七つ屋(質屋)にねだるように必死で番頭をくどいている。

芸者

ある日、無二郎は寺参りの帰りに両国あたりを歩いていたが、向こうからやって来る美しい芸者を目が見つけて浮かれだす。耳は芸者の三味線が聞きたくてたまらなくなり、二人して〈気〉をたきつけた。

〈気〉は、たちまち興奮して〈心〉の旦那にせがんだが、旦那はキッと辛抱して首をたてにふらない。

心

「とかく見るだけでも目の毒だ。見るな、見るな。さぁ、歩け、歩け。どう見ても二分(4~5万円くらい)はかかる上玉だ。」

目

「なんとまぁ、いい燭台じゃあねぇか。百目ロウソクをいっちょう灯してぇ。」
目は舞い上がって、わけのわからないことを言っている。

芸者

「喜助どん、百川ももかわ(料亭)には小田原町の役人さんも、いらっしゃったかの。」

若い衆

「かんざしが落っこちそうだ。もっと差し込みなせぇ。」

注釈

耳に諸々の不浄を聞いて~
神道の祓詞(はらいことば)。耳からイヤなことを聞いても、心はつねに清浄さを保つこと。