お江戸のベストセラー

人間一生胸算用にんげんいっしょうむなざんよう

8

人間一生胸算用 08

〈気〉は、みんなにおだてられ、やたらと気が大きくなり、ある日、口をお共にして向島の料亭武蔵家(鯉料理の名店)へくり出して、豪快におごりまくった。
口は生まれて初めてこんな旨いものを食い、酒もしこたま飲んで、いい心もちになって酔っぱらう。
〈気〉は、だんだん違ってきて、いきなり笹の葉をかついで踊りだした──酒を「気ちがい水」というのは、まさにこのことか。

〈気〉が壬生みぶ狂言にキツネが憑いたようなアヤしい手つきで踊れば、口はマヌケが心学を習うときのように茶わんを叩いてはやしたてる。

女

「鯉の洗いもお持ちしましょうか。」

口

「どれどれ、何から食うか。ああ、小娘が呉服屋へ行ったときのように目移りしてたまらん!」

それから〈気〉は、いよいよ気がふれ、目のヤツにも色っぽいものを見せて、鼻にもいい香りをかがせてやろうと二人を呼びにやり、みんな仲良く吉原なかちょうの夕景色を楽しんだ。
目・鼻・口は三人寄って凡夫の知恵をだし、〈気〉をおだてまくって吉原でイッち美しい花魁おいらんを手配させる。

口

口は、ヨダレをたらして見ている。

鼻

「ああ、いい匂いだ。これが、 百助ひゃくすけクコ油か。ちっと小菊(上質の懐紙)で鼻をかんでから、よく匂いをかごう。今までは、チリ紙でしかかんだことがねぇ。」

目

目は、正月が三度いっぺんにきたように、目をこらして眺めまわしている。

注釈

壬生狂言
京都の壬生寺で奉納される無言劇。寛政二年(この本が出版される前年)に深川の永代寺で興行があり、江戸で流行っていた。
心学
神・儒・仏を合わせて、わかりやすく説いた実践道徳。茶碗を棒で叩いて「音を出すのはは茶碗か棒か?」と問う。
中の町
吉原の大門からまっすぐ伸びるメインストリート。
→『中の町』
百助
浅草の化粧品店。現在も営業中。
クコ油
ゴジベリーオイル。セレブもご愛用のオーガニック美容成分。
正月
成句「目の正月(よいものを見て楽しむこと)」をもじる。