巻之三(1)
浅之進、江戸を立つ
天地の初まりにおいて、天神七代のころは、まだ男女の道を知らず──男色だけを楽しむ。
やがてイザナギとイザナミの二神現れ、天の瓊矛を大海原に差し下ろし、めったやたらにかき混ぜれば、矛の先から滴る潮が凝り固まって焼塩となり、この時から辛き浮世というものが始まった。
イザナギとイザナミは、初めて男女の交りというものを試してみたが、どうにもやり方がよくわからない。困っていると、一匹のセキレイが舞い降り、そのしっぽをピコピコ動かして手本を示した。これを見て、スリコギとスリ鉢が初めて合体した……らしいが、今どきそんなヤボな話はない。古書の紙魚(紙を食べる虫)や肌着のシラミをはじめ、生きとし生けるものにはみな陰陽の形があり、その形どおりに交わるのは大自然の摂理である。これは、若い者にとっても同じこと。やることをやるのに、セキレイ先生の教えはもういらない。
そんな若者の一人、浅之進が駿河台の庵を出て通りをブラついている。
「カゴやろう、カゴやろう!」
辻駕籠の客引き声を聞き流しながら歩いていると、後ろからほっかむりした男がチョコチョコと小走りで追いかけて来て小声でささやいた。
「旦那、土手までやりましょう。」
さては、土手とはウワサに聞く吉原の日本堤のことか、それなら渡りに船と浅之進も乗り気になって「乗ろう」の「の」の字を言う間もなく、「それっ相棒!」と “カゴ据える・乗せる・担ぐ” の電光石火の早技──あっという間に「コリャサ! コリャサ!」と走り出した。
カゴに揺られて、ゆらりユラユラ渡りの雁か沖こぐ船、ついウトウトして寝耳に入る暮六つ、鐘は上野か浅草を過ぎる間もなく一足とびに吉原へ。これも通う神(交通安全の神)のおかげだろうと、ご加護(駕籠)を下りて裾はらう。見栄もつくろう衣紋坂、まだ知る人も中の町、客の手引きをする引手茶屋では、夫婦者が「ソレお茶よ、煙草盆よ」と、せわしないもてなしで出迎える。
浅之進にとってはすべてが初めてのことなので、白魚の吸い物も、浮かんでいるユズも、酒も、何もかもが他より旨い気がしてくる。
亭主は、ごきげん取りに下手くそなダシャレで街中を紹介しはじめた──夜見世の始まるのを『待合の辻』、女っぷりの上下の『境町』、今日のおすすめ『京町』、新町から河岸までぐるりと回れば、これでぜんぶ『角町(済み)』、そろそろ遊びの時を『江戸町(得る)』 ──などなど、くだらないことを言ってる間に、いよいよ行きかう提灯や下駄の音も騒がしく、見世の格子の中はまばゆい灯火に照らされ、彩り鮮やかな装束が輝きだす。
煙草盆を前にして、もの思いに煙をくゆらせる女。文をしたためている女。まっ白い襟足にかかるほつれ髪も艶かしく、となり同士で何やらヒソヒソささやき合ってるようすにも心惹かれる。やかましく響く三味線の音に心かき立てられ、浅之進は浮かれノボせて夢ごこち。この世のものとも思えず、誰もがみな美しく見え、アチラと決めればやっぱりコチラ、目移りしながら必死で見定める。
一夜流れの縁結び……出雲の神さまも、さぞやいそがしいことだろう。
遊びの趣向、閨の振る舞い、かけ引き、たくらみ、やりくりもようは、他の書にいくらでも書いてあるので、ここでは述べない。
同じ相手を次も選ぶことを『裏を返す』というのは左官屋が言い出したらしいが、女郎が他の見世へ移ることを『鞍替え』というのは伯楽の言葉か。二度よりは三度、五度より七度、だんだん面白くなり、顧愷之の甘蔗ではないが、ようやく佳境に入ることを『粋』といい、また『通り者』ともいう。しかし、ウブな最初のころの高揚感も捨てがたい。
「女郎遊びと灰吹は、青いうちに限る!」
浮かれたことを言って浅之進は吉原を後にしたが、さらに勢いにまかせて今度は日本橋の堺町へと向かった。
「次は、男色をためそう。」
ここは、異世界である。
金剛(マネージャー)の持つ提灯が役者の紋を輝かせて先を照らし、役者の大振袖の羽織が恋風に吹かれてヒラリとひるがえる。かざす編笠の内に隠れた紫の帽子は舞台へ上がる女形のしるし。
人の好みは、その顔のちがいほどいろいろあるが、若いの、大人びたのとそれぞれ相手もそろっていて、ヒゲの剃りあと青光る四十過ぎの振袖までいる。これを遊んでこその好の極致というが、さすがにとうが立った火吹き竹の和えものは、タケノコの和らかさにはかなわない。
木挽町の陰の部分に引かれる者は、身代をおが屑のように木っ端みじんにされ、芝の神明参りの帰り道は神仏二道のごとく男女両道の欲を満たす。
そのほか、深川や品川をはじめ江戸の色街は数々あるが、浅之進はその全てを見てまわり──最後は羽根のない夜鷹や餡のない舟饅頭まで、あますことなく江戸の町を味わった。
「次は、諸国を見てまわろう!」
こうして浅之進は、その身ひとつで江戸を旅立つ。どうせたいした金もないので盗人の心配もない。疲れれば休み、休めば進む──勝手気ままな一人旅がはじまった。