巻之二(1)
浅之進、開眼す
浅之進は、自分の寺でじっくり思い返してみたが、かの風来仙人の教えは一つとして間違ったことがないように思える。
ためしに、しばらくのあいだ寺に残って諸宗のようすを観察していたが、どの坊主もうわべを飾って錦繍を身にまとい高みからエラそうに説きチラすだけ。衆生を導き往生の願いをとげるなど、まるで極楽浄土の口利きか。しかも愚かな信者どもが、これを生き仏さまとありがたがって金銀財宝差し出せば、感心な心がけと──さすがに「まいど!」とは口に出さないが──心の中でニヤリとして金の使い道の胸算用。
仏の恩さえ顧みず、寺での法事の立派な供物は、人に見える側は豪勢に飾っても仏の側はみすぼらしく、供える飯も使い回しの蒸し返し。朝晩のお勤めも、ワザとらしく外に聞こえるように鉦は高く叩くのに、唱える念仏のいいかげんなこと。
昔からよく言われることだが──金持ち金使わず、槍持ち槍使わず、髪結い自分の髪結わず、弁当持ち先に食わず、取り上げ婆は子を産まず、風呂焚きはアカだらけ、うどん屋は飯を食い、医者の不養生──そしてなにより『坊主の不信心』である。
坊主といっても木の股から生まれたわけじゃなし、俗人と同じように旨いものを食えば旨いし、面白いものは面白いのである。
なので……椎茸、かんぴょう、長芋、レンコン、 南無阿弥豆腐の油揚げ、柔和忍辱(ニンニク)、葱ぞうすい。精進ばかりじゃもの足りないと、むき玉子、カツオのキジ焼き、厭離穢土(江戸)前大かば焼、阿字(鯵)本不生のにぎり寿司、ジンバラ腹のふくれるほどに食いまくり、八功徳水の熱燗を引っかける。
さらに、邪念をふり捨て一心不乱の女郎狂い。妙法恋慕の闇に迷い、涅槃へ導く安カゴで何度も何度も通っても、本来無一物の客なので、どうせたいした花はくれないと女郎にも見すかされ、若い衆にもうるさがられる。あるいは、薬師如来の瑠璃の壺入り、オンコロコロと蹴ころばし比丘尼のまん丸頭巾の黒い闇に迷い込む。
それでも年若いならまだしも、額に年を刻み眉も真っ白な老僧が、寺内では弟子もたくさんいるだろうに、魂を廓に置きっぱなしにしては、もはや一人も従う者はなし。
てなわけで、世のことわざにも、
「落ちそうで落ちないのは、二十坊主と牛の金玉。落ちそうもなくて落ちるのは、五十坊主に鹿の角。」
というが、これは足利時代までの昔の話。今の世では、老いたるも若きも貴きも賤しきも、大風の日の熟した柿と同じで落ちぬものはひとつもない。たとえ落ちぬように心を強く持ったとしても、どうせ行き着く先は乞食坊主がいいところだろうと浅之進は開眼し、おもむろに筆を取って障子に黒々と書きなぐった。
のがれんと思いし道の暗ければ
もとの浮世に有明の月
こうして浅之進は、仙人から授かった羽扇だけを手にして光明院を後にした。