巻之一(2)
浅之進、啓示を受ける
ふと目を覚ました浅之進が、キョトンとしてあたりを見まわすと、美女の姿もごちそうも宮殿もない。さては夢かと思ったが、松の木が枝をつらね、岩にくだける渓流の音が響くようすは自分の寺とも思えない。これは、タヌキかキツネに化かされたか? と呆然としていると、上空から突如ひとかたまりの雲が飛来して、中からアヤしき姿の者が現れた。木の葉を身にまとい頭巾をかぶり、左手に杖をつき、右手に持った羽扇で浅之進を指し示す。
「よいかな、よいかな。おぬしに教えたいことがあって、仙術を使って招き寄せたのじゃ。少しもアヤしむことはない。」
そう言って近づく姿を見ると、どうも老人のようだが、顔色は玉のように輝いて三十くらいにしか見えない。髪は黒くヒゲ長く爽やかな目元、威厳はあるが尊大なところがない──まさに仙境に住む仙人といった風体。浅之進は気圧されて、思わずひれ伏して拝んでしまった。
そんな浅之進に、仙人が告げる。
「おぬしは生まれつき人より優れているが、父母が仏法に入れこんで出家させたのは、まるで泥の中に黄金を投げ入れるようなもの。わしはこれを見かねて、おぬしをここに招いたのじゃ。
それ仏法は、人が死ぬことをいいことに、地獄極楽なんぞといって愚かな年寄りを惑わすただの方便。とても智ある者を導く教えではない。
人は、陰陽の二つをもって成り立っている。たとえば、石と金属とをきしり合わせて火を生ずるようなものだ。まだ焚き木があって燃えている間が人の一生で、火が消えたとき後に残る炭が死骸である。そのとき、消えた火が地獄へ行くとか極楽へ行くとか、そんなことに何の意味もない。」
浅之進は、手を打ってうなずく。
「先生の教えを受けて、これまでのモヤっとした迷いが夢から覚めたように晴れました。もう坊主になるのはやめにします。しかし、人の世にあって、ただ草木のように朽ち果てるのも望みではありません。どうか、私に本業とすべき道をお教えください!」
「よく言った。」仙人が羽扇を上げて浅之進を指した。「されば、わが身の上とおぬしの行く道を示そう。」
「われはその昔、元暦年中の生まれで、源平の合戦などは幼心の耳に残っている。ようやく天下が治まり鎌倉将軍が政を始め、人々が太平の世を楽しむころ、わしは片田舎で成人したが──思えば、高祖劉邦はただの百姓から三尺の剣を引っさげ漢王朝四百年の基を開き、『王侯や宰相に家柄は必要なし』とは楚の陳渉の言葉だが──今また、諸国の大名小名を見れば、頼朝、義経の尻馬に乗っかって小者までが家を起こそうとする。
わしも何かで身を立てようにも、平和な世では剣は役に立たず、芸でもって身を立てようと思ったが──しかしじゃ!
世の俗人どもの芸と称する茶の湯は、古茶碗、竹ベラなんぞに千金を費やして、四畳半の気づまり、自らにじって草履をかたすなど、とても大人物のやることではない。
立花は、一瓶の中に千草万木の趣きを込めるというが、釘で打ちつけハリガネで直していては、とても自然の風景とはいえん。
碁を打つ者は、並べてくずし、くずしては並べ、その智が碁盤の外に出ることはない。こいつらは死んでは賽の河原で、
『一目打てば父恋し…二目打てば母恋し…』
と、地蔵菩薩の袖にすがって獄卒の鉄棒から隠れるということだ。
将棋は戦さの駆け引きと言うが、韓信や孔明が将棋を指したなどとは聞いたこともなし。ためしに将棋の得意な者に采配とらせて戦さをさせれば、敵の龍馬に踏み殺され、桂馬の高飛び歩兵の餌食となることまちがいない。
香を聞く者は、鼻でもって天下を治めるかのように、しかめっ面をして『聞香悉能知』などとエラそうにほざいているが、しょせん無用の子供だまし。六国なんぞと無学ならではの名目を立てること片腹イタシ。
楊弓は、百射って五百中ろうがネズミをとる足しにもならん。
蹴鞠が上手といっても、腹のへるのと高い金出して着飾るよりほかに能がなし。
尺八の名人が女郎の屁のようなやさしい音色を吹き出しても、虚無僧のほかは何の役にも立たず。歯が抜けるだけ損をこく。
鼓のヤッハア、太鼓のテレツクス、ツテンテン、どんなに上手くなってもしょせん耳へ入って抜けるまでの楽しみ。その音を残すことはできん。
そのほか俗の芸というものは、みな小児の戯れに過ぎん。人が学ぶべきは、学問と詩歌と書画のほかにはない。
しかし、これさえ教えが悪いときは、世事にうとい学者先生が上下を着て井戸をさらい、火打箱で芋を焼くような見当ちがいなことをする。これは唐(中国)の古書にしばられたコチコチ頭が、ただの紙きれの言うことに振りまわされるからで、ない頭を振り絞ってない知恵を出しても、かえって世間並みの者にも劣るありさま。これを名づけて『クサレ学者』といい、また『ヘッピリ儒者』ともいう。ミソのミソ臭さと学者の学者臭さは、ホントたまらん!
さらに、この愚かさに気づいたセンセイたち、こんどは宋儒の頭巾をかぶって妙案をヒネり出したが、しょせん角を治そうとして牛を殺しただけのこと。結局、末流の木っ葉学者などは、猪牙舟に乗ってひちりきを吹き、三味線で唐風の歌を唄い、はなはだしきは、天下を回らす手のひらでお花とやらを回す始末──言語道断といえる。これみな、本質を知らざると鼻毛を抜かざるタワけである。
唐は唐、日本は日本、昔は昔、今は今である。礼の作法だって三代も続けば通用しなくなる。古書では『立って供するのが礼なり』というが、今では貴人に立ったまま対するなどありえぬこと。『聖人の政』などと立派なことをいってみても、実際に今『井田の法』を行えば、百姓どもに “あんぽんたんの親玉” 呼ばわりされることまちがいなし。
しかし、何ごとも無学無能はいかん。技を身につけた腕の立つ大工や、鍛えられ研ぎ澄まされた刀のようでなくては、優れた人物になることはできん。
わしもまた、なまくら刀ではないので、鎌倉に出て世のため人のためになることをしようと町のフチに身をひそめ、うなぎ、ドジョウのようにぬらりくらりと世を渡っていたが、つくづく世上をうかがえば平家が西海に沈んでのちの天下泰平。
賢者はいても用いられることもなく、北条、梶原にコネのない者は位を得ることもできん。たとえ大江、秩父などの優秀な諸侯がいても、近づこうとしただけで取り巻き連中に邪魔される。そのほか小者連中にいたっては、みな顔に紅白粉を塗っての道楽三昧。『イヨ!市川の殿様!』などとおだてられ、大磯小磯から女妓なんぞを召し抱え、昼夜を問わずサッサオセオセおせせの蒲焼ときたもんだ。
のっぺり顔の媚びへつらいどもしか意見する者もなく、贅沢三昧とどまることを知らず──ふところ具合はあっという間に火の車。いまさら悔いても耳に痛い家老用人すでになし。もはや興(今日)も明日も冷めたヤカン頭をうちふって、三人寄れば文殊の知恵、百人寄っても出ぬは金。さすがに恥も外聞もあるので無間の鐘をつきに行くわけにもいかず、出入りの金売吉次に頭を下げて、とうとう格式までも売りに出す。一の谷、屋島の戦さで命を的にして奉公した譜代の家臣でさえ、めったにもらえぬ格式ある定紋付──虎の威を借るこの定紋付を狐、狸が身にまとっては、世の乱れここに極まる!
そんな時代にウケるのは、坊主、金持ち、女の子、三味線、浄瑠璃、たいこ持ちのたぐいだけ。もはや、どんな名玉も見出されることはないと、わしは失望し世を遁れて山林に身を隠し、木の実を食って飢えをしのいでいたが、いつのころからか仙術を得て飛行自在の身となり、風来仙人と称して五百余年の星霜を送る。
今の世の風俗はよく知らぬが、おぬし、出家をやめても決して芸ごとを誇ってはならんぞ。また、あまりに正道にこだわりすぎるのもいかん。そんなことをしても結局は世を捨てるか、世に捨てられるかだ。めざすところは、東方朔のように笑いでもって人を近づけ、わかりやすいたとえ話を使って俗人を導くことじゃ。」
浅之進は、仙人の長話しにまじめにつき合っていたが、ここで顔を近づけて申し出た。
「謹んで先生の教えをお受けしました。しかし私は若輩者で、まだ世の中をあまり知りません。どうしたらよいでしょう?」
すると仙人は、手にしていた羽扇を浅之進に与えて告げる。
「これは、わが仙術の奥義を込めた団扇である。この団扇をあおげば、暑いときは涼風が吹き、寒いときには暖かな風を生じ、飛ぼうと思えば羽となり、海川では船となり、遠くを見ることも小さな物を見ることも、さらには、その身を消すことさえできる究極の宝である。これを使って天地の間を往来し、諸国の人々の人情を知るがいい。ただ人情というものは結局は色欲につきるので、各地の色里なんぞで遊ぶことも忘れるな。諸国を巡るうちには、面白いこと、悲しいこと、さまざまなことがあるだろうが、決して苦しいとは思うなよ。
おぬしの修行が成就して再びこの地へ帰って来たら、そのときにまた会おう。さらば! さらば、さらば~。」
消えゆく声は、障子に残る風の音。
気がつくと浅之進は、自分の机の前で寝るともなく醒めるともなく呆然と座っていた。すべては夢かと思ったが、ふと見ると、かたわらに残る羽扇がひとつ……。