お江戸のベストセラー

大悲千禄本だいひのせんろくほん

3

大悲千禄本 03

鬼の茨木いばらき童子どうじは借りてきた千手の御手を付けてみたが、スベスベした手ではサマにならんと、神田駿河台の人形師・与吉に頼んで剛毛を生やしてもらう。

与吉

与吉
「ちょうどししの毛を切らしているので鹿の毛を使います。ししの毛なら愛宕山へ行くのもいいですが、鹿の毛なので春日山へおいでなさい。」

与吉の女房

与吉の女房
「茨木さんじゃ、気がない、気がないよ。」

与吉

「ここだけの話ですが、わたくしのさいなどは、今ではモジャモジャと生えました。」

茨木童子

浅間山の筋毛すじげが積もったんじゃないのか。」

薩摩守忠度

薩摩守さつまのかみ忠度ただのりは喜々として千手の御手を借りに行ったが、ついうっかり斬られたのとは逆の左手を借りて来てしまった。付けると両方とも左手だ!
さざなみや~
とりあえず得意の歌を詠んでみたが、左右逆の文字になってしまい困り果てる。右手に替えてもらおうと使いを出したが、すでにぜんぶ貸し出し中とのこと。ヤケになって左の御手で書きなぐっていたが、とうとう観念して今は叶わじと念仏を唱えだす

薩摩守忠度

「これじゃカッコ悪い、よみ人知らずにしておこう。それにしても、六弥太ろくやために斬られた腕はもうしなびたかしらん。」

行きくれてこのしたかげを

をげかたしのこてれくき行

注釈

与吉
神田に住んでいたとされる人形師。人形に植毛する名人。
愛宕山
京都の山。猪は愛宕山の神使。
茨木童子が美女に姿を変えて渡辺綱をさらったときに向う山。
春日山
奈良の山。古来から鹿が神の使いとされる。
気がない
「いや」の意。「毛がない」とのシャレ。与吉の妻は無毛だったが与吉が植えたとされ「与吉の女房」はカワラケ(無毛)の隠語。
浅間山の筋毛灰
天明三年(1783)の浅間山の大噴火。
「関東、筋毛灰降らす事おびただし」(武江年表)
さざなみや~
 さざなみや志賀の都は荒れにしを
 昔ながらの山桜かな
「千載和歌集」よみ人知らず(平忠度)
今は叶わじと念仏を唱えだす
謡曲『忠度』。
六弥太に右腕を斬られた忠度が、
「左の御手にて六弥太とって投げのけ、今は叶わじと思し召して『そこを退きたまえ人々よ、西拝まん』とのたまいて──」
念仏を唱えている間に首を斬られる。
をげかたしのこてれくき行
斬られた忠度の箙(えびら:矢入れ)に結んであったとされる歌(平家物語)。
 行き暮れて木の下かげを宿とせば
 花や今宵のあるじならまし
この歌の「行きくれてこのしたかげを」の部分が鏡文字になっている。芸が細かい。