お江戸のベストセラー

大悲千禄本だいひのせんろくほん

5

大悲千禄本 05

そのころ、伊勢国の鈴鹿山に鬼神が出没して付近の住民を悩ませていた。征夷大将軍の坂上さかのうえの田村麻呂たむらまろに宣旨が下り、退治せよとの勅命を受ける。しかし千の手がなくては、「ひとたび放せば千の矢先、雨あられとふりかかって──」というお決まりの見せ場にならないので、田村麻呂が千手の御手を借りにくる。

千手観音

千手観音
「今はぜんぶ貸し出して一本もありませんが、急ぎ集めてお貸ししましょう。」

田村麻呂

田村麻呂
「一本につき南一なんいちぐらいでお貸しくださるとありがたいのだが。」

千手観音は千兵衛といっしょに御手を回収してまわり、今度は田村麻呂に貸し出してまた儲ける。

千兵衛が返ってきた御手を調べている。
女郎に貸した手は小指がなくなり、握りこぶしで返ってきた手はキズだらけ、塩屋へ貸したのは塩辛く、紺屋こうやのは青くなって、下女のはぬかミソ臭く、アメ屋はネバネバ、飯炊きはしもやけだらけで、米搗屋こめつきやはマメだらけ──あげくに剛毛の生えたのや指が焦げたのまである。

千兵衛

千兵衛
「人差し指と中指から変な匂いがする。こいつは、どうしたわけだ。」

注釈

坂上田村麻呂
平安初期の武人。
伝説が多くフィクションでもよく語られる。謡曲『田村』では、鈴鹿山の鬼退治を命じられ、千手観音が加勢して千の矢を乱れ撃って鬼の軍団を撃破する。
ひとたび放せば千の矢先
謡曲『田村』で千手観音が千の矢を放つシーン。
「千本の手なら弓矢は五百本しか射れねーだろ!」というツッコミは、江戸時代からありました。
千手
手のない千手観音は、もはや白衣観音と化していて、補陀落山の草の上に座すモチーフで描かれている。
手前にある箱は常香盤(お香を長くたけるようにした香炉)。香時計として時間を測るためにも使われた。
南一
南鐐(なんりょう)二朱銀。一両の8分の1。