お江戸のベストセラー

根南志具佐ねなしぐさ

現代文

五の巻

明日をも知れぬ定めなき世と人は言うが、じつは、定めがないのは世の中ではなく人の心のほうだ。
むかしは「春宵しゅんしょう一刻、値千金」と言って、春のよいのたった一瞬にむちゃな高値をつけたヤツがいたが、今では「浮世は三分五厘」と言って人生を安値でたたき売るヤツもいる。かといって実際のところ、春の宵の一瞬を千金出して買うタワけもなく、三分五厘で売れるような粗末な人生もない。口で言うだけならどんな浮世もタダだから、みんな好きなように言ってるだけだ。
つまり人の世は、言い方、考え方しだいで良くも悪くも、どうとでもなる。定めがないのは、世の中ではなくそこに暮らす人の心のほうだ。
聖人の孔子でさえ、心が定まらず父母の国を尻はしょって去ったが、これは故郷の魯国ろこくがいくら広いといっても、ウマが合う相手がいなかったからだ。孔子が旅の途中で程子ていしという男に会ったとき、話がはずんで心を通わせたが、たとえ初対面でも気さえ合えば友として打ちとけることができる。心が合わなければ親兄弟であってもかたきになってしまうが、口さえ合えば人類みな兄分あにぶんとなり若衆となる──オモテもウラも食いつくしてこそわかる、じつに奥深い言葉である。

さて菊之丞だが、今人気絶頂にある役者なので世に彼を望まない者は一人もいない。みなその美しさにあこがれ、結綿ゆいわた(菊之丞の紋)を見ただけで身もだえする者も多い。しかし、一人としてその心を射とめた者はなく、そんな菊之丞の心をたった一度の出会いで手に入れてしまったあの男は、まさにその道の氏神といえる。

ほどなく二人は起き上がり、手洗いなどして座り直し、また酒を酌みかわしはじめたが、初めよりはだいぶ打ちとけたようだ。
高く昇った満月がこうこうとして、舟の中を明るく照らしている。川風はそよそよと吹きわたり、夏が去って秋がきたようなここち良さ。仲むつまじそうに呑む二人だったが、酒がすすむにつれて男の表情がだんだん曇っていく。思いつめたようすで菊之丞の顔をじっと見つめていたが、男は突然ハラハラと涙を流しはじめた。おどろいた菊之丞は、やさしくすり寄り声をかける。
「なぜ、そのような悲しいお顔をなされます。」
しかし、男はうつむいて涙を流すだけ。
「さては、わたしの所作でお気に召さぬことでもありましたか。このような仲になったからは、隠しごとなどなさいますな。」
男は涙をぬぐい、ようやっと話しはじめた。
「そのようなやさしい言葉をかけていただき、黙っていることが苦しくてなりません。そのうえ、あなたに非があるようにとられては、この胸がはり裂けそうです。このさい秘密を明かしますが…おどろかないでください。」
男は意を決して話しはじめた。

「じつは…オイラは人間じゃなく、水底に住むカッパなんです。」
菊之丞はキョトンとして、目をパチクリさせた。冗談かと思ったが、男の真剣な眼差しに思わず背筋がゾクっとして話に聞き入る。
「バカな話ですが、地獄の閻魔えんま大王があなたに恋をしてしまったんです。それで、わがままな大王が、われらの頭領である龍王へあなたを冥土へ連れて来いと命じたもんだから、竜宮で協議が行われ、オイラがその役目をかって出たというわけです。人間界へ来て侍の姿に変身し、妖術を使って和歌など詠み、あなたに近づいてその身を水中に引きずりこむ作戦でした。しかし、あなたのあまりの美しさにやられてしまい──」
カッパは、まだ術が効いてるのか遠い目をしてえいじはじめた。
「──無理と承知の恋をして、初めて知る君の情けの奥深さ、松に千年ちとせの思いをこめて、からまる藤の恋衣こいごろも、たがいの帯も打ちとけ合って、その秘めごと忘れられず、またの約束できかねて、かねて企むわが心も昨日と変わる飛鳥川、淵と瀬川の君の──その君のためオイラも覚悟を決めました!
もし、このままあなたを残して竜宮へ帰ったら、龍王からどんなバツを受けるか知れません。むかし乙姫がご病気のとき、治療のため猿の生肝いきぎもが必要になって猿をとらえましたが、口をすべらせたクラゲのせいで逃げられてしまったことがあります。怒った龍王はクラゲの骨をみんな抜いてしまいました。龍王は怒るとホント手におえないんです。それに、オイラは大勢の魚どもの前でエラそうなこと言って出てきたので、オメオメ帰ったら大恥かくことになります。なので、これから山に身を投げて死にます。あなたを助けて死ねるなら本望ですが、死んだら本当の姿がバレてきっと愛想をつかされてしまうでしょう。
世の人なら死んで来世で契ることもできますが、あなたはいずれ死んだとしても閻魔王の寵愛を受け、そのときオイラは畜生道に落ちているので、もう二度と会うこともないでしょう。
たとえオイラが死んでも、竜宮城にはまだまだ手練れの者がそろっています。これからは、くれぐれも水辺には近寄らないようにしてください。」
カッパはむせび泣きながら胸の内を明かした。菊之丞もたもとで目がしらを押さえている。
「あなたの身の上を聞いておどろきました。たとえ動物や草木でも、人の姿に化身して人と結ばれることもあるといいます。唐土もろこしでは、梅の精が酒場で男と契りをかわしたと聞きます。この日本ひのもとでも、むかし安部あべの保名やすなが白ギツネと所帯をもちました。人でないものと契ることに何の悪いことがありましょう。一度でも枕を共にした相手をわが身の代わりに死なせては、わたしの情けの道が立ちません。それに、わたしが閻魔王に慕われているのなら、もはや逃げきれる命ではありません。ぜひ、わたしを冥土へ連れて行き、あなたのお役目を果たしてください。」
そう言って舟べりから身を投げようとする菊之丞に、あわててカッパがしがみつく。
「その心いきは嬉しいですが、ここであなたを殺したら『さすがいやしい畜生、情けを仇で返した』と世にあざけられ、オイラばかりか国にいる親兄弟、一門までの恥。それに、その玉のようなお顔が水底の藻くずになってしまうのはたえられません。どうか、早まらないで。」
「しかし、あなたを死なせては情けの道が立ちません!」
「いや、オイラさえ死ねば、ことがおさまる!」

「やれ、待ちな!」
菊之丞とカッパが舟べりでもみ合っていると、突如後ろから声がした。おどろいてふり向くと、そこにいるのは荻野八重桐だ。
「どちらも落ち着きなされ。じつは、シジミを採っていたら酒の酔いがまわって気分が悪くなったので、ひとり戻って来ました。すると…まさかの秘めごとの真っ最中、おジャマするのも不粋だし、ちょっと興味もわいて舟のスミに隠れてました。なので先ほどからの話はすべて聞いてしまいましたが、はかない一生のカゲロウや夏のセミですら命を惜しむのに、お二人の先を争って死のうとするけなげさには心打たれます。しかし、菊之丞どのに惚れたのが閻魔大王なら、とても逃げきれるとは思えません。といって菊之丞どのを死なせては、世話になった先代の師匠に申しわけが立たない。大王が菊之丞どのを知ってるわけじゃなし、ここはわたしが身代わりとなって冥土へ行きましょう。」
突然の提案におどきろき反論しようとする菊之丞をおさえて、八重桐が話しはじめた。
「菊之丞どのも知ってのとおり、わが荻野の家は元祖の梅三郎からわたしの親の先代八重桐まで、代々名代なだいの女形として三都(江戸・京・大坂)に知れわたり、上方では座元もつとめた家筋。しかし、わたしが三歳のとき父の八重桐が浮世を去り、母も五歳で亡くなりました。たよる者もなく孤児みなしごになったわたしは、乞食、非人に身を落とすところを先代の菊之丞師匠に拾われました。師匠は、わたしをわが子同然に可愛がり、小歌、三味線、扇の手ぶりに声色と芸のすべてをたたきこみ一人前の役者に育ててくれました。子のなかった師匠は、わたしに瀬川の家を継がせてもいいが、それでは荻野の名がなくなると言って、わたしには親の八重桐を継がせて幼いあなたを養子に迎えたのです。
今のわたしが三都の舞台を踏めるのは、みな師匠の情けのおかげです。師匠が亡くなるとき、わたしを枕元に呼びよせて──気にかかるのは幼い吉二きちじ(菊之丞の幼名)のこと、おまえがわたしに代わって盛り立て、立派な二代目菊之丞にしておくれ──と、涙ながらの末期の言葉。心にしみわたり、わたしは命にかえても後見役をつとめ名を上げさせますと誓いましたが、それを聞いた師匠の最後の笑顔が忘れられません。それから、菊之丞どのには師匠から習った芸を伝授してきましたが、もはやわたしが教えることもなく、その名も高まり、客が菊之丞、菊之丞と叫ぶ声は自分の名が上がるよりも百倍もうれしくて、あなたが評判をとるたび師匠の位牌に向かって自慢しています。
そういうわけで、ここであなたを死なせては師匠に言いわけが立ちません。それに瀬川の名を断絶させては、師匠の最後の願いも無にしてしまいます。わたしには子がいるので、死んでも荻野の名は残ります。五つのときから育ててくれた親にもまさる師匠の大恩に報いるのは、まさに今このとき。心残りといえば、あとに残す妻子のことですが、どうか見捨てずに世話を頼みます。
あなたの器量に比べれば、雪のようなシラサギと墨絵のカラスほどちがうわが身ですが、なに、そこは役者の芸で閻魔王すらダマしてみせます。では菊之丞どの、くれぐれも身持ちお大事に、芸にはげみ、親にも叔父にもまさるとの評判を草場の陰から見守っています。」
舟べりから川に飛びこもうとする八重桐だったが、菊之丞が涙を流してしがみつく。
「親に別れてから育ててくれたのはあなたです。ご恩あるあなたを死なせては、わたしも生きてはいけません。ぜひ、この身を!」
「いや、わたしが!」
「いやだから、ここはオイラが!」

三人がもみ合っていると、ドヤドヤと船頭や平九郎、与三八がシジミを持って帰ってきた。菊之丞と八重桐はハッとして立ちすくんだが──カッパは消えてしまった。突如舟のまわりがザザッと波打ちはじめ、菊之丞が水面みなもに気をとられていると、八重桐が舟べり越えて高々と飛び上がった──バッと水けむりがあがり、うたかたの泡を残しながら水の中に消えていく。

根南志具佐 050

「八重桐が川に落ちた!」
平九郎の声がひびき、とたんに舟の中は騒然とする。みなで水面を照らして必死で探しまわったが、風が波間を吹き抜けていくだけで八重桐の姿は見当たらない。菊之丞は呆然として、後を追って舟べりから身を乗りだしたが、平九郎が後ろから羽交いじめにして止めた。
「八重桐が落ちたのは事故だ。おまえまで落ちてどうする!」

いくら探しても八重桐は見つからなかった。

「これは、お役人に届けねばなるまい。」
「八重桐の家族にも知らせなくては…。」
「何があったとしても、われらみなの責任だ。」
船頭や平九郎たちが口々に言い合っている横で、菊之丞は放心して立ちすくんでいる。いつの間にか月は雲に隠れ、しとしとと雨が落ちてきた。暗く沈んだ真っ黒な水面みなもを、いつまでも、いつまでも菊之丞は見つめていた──。

根南志具佐ねなしぐさ 

注釈

春宵一刻、値千金
春の夜のすばらしさをたたえる言葉。
浮世は三分五厘
三分五厘は当時の米5合の値段。1日三分五厘あれば食っていけるので、世の中それだけで十分ということ。
兄分となり若衆となる
男色でリードする側、される側。
孔子まで持ち出してもっともらしいことを言ってますが、男色の相性についての話です。
氏神
達人。現代の神と同じ用法。
昨日と変わる飛鳥川、淵と瀬川の君
「昨日の企らみも気が変わった」
昨日と飛鳥(明日)をかけ、古今集の「世の中は何か常なる飛鳥川、昨日の淵ぞ今日は瀬になる」をもじって瀬川につなげる。
口をすべらせたクラゲ
民話『くらげ骨なし』。クラゲの骨がないことの由来話。だまして捕まえた猿に生き肝を抜くことをクラゲがうっかりバラして逃げられてしまう。
梅の精
羅浮仙(ふらせん)。中国の伝説の梅の精。
安部保名
平安時代の陰陽師。白狐の精・葛の葉と所帯を持つ。二人の子どもが安倍晴明。