お江戸のベストセラー

根南志具佐ねなしぐさ

現代文

一の巻

あなた、河を渡らないで
あなたが、ついに河を渡った
あなたが、河にちて死んだ
ああ、あなたをどうすることもできない…
(『公無渡河歌』朝鮮の古代歌謡)

これは遠いいにしえ唐歌からうただが、夫が川で溺れ死んだ悲しみにたえきれぬ妹子わぎもこ(妻)の嘆きという。
ときに、宝暦十三年の水無月みなづき(六月)のころ、 荻野おぎの八重桐やえぎりという役者が水に入ったまま帰ってこなかった事件は、町中いろいろウワサが飛びかって大騒ぎになったが──その真相を知るものはいない。

この世から、はるかかなたの極楽と地獄の真ん中に閻魔えんま大王というお方が鎮座ましまし、三千世界を治めている。その臣下は十王をはじめとして数多く、みなで人間界のすみずみまで、士農工商のスキマも見逃さず目を光らせている。

昔は、閻魔えんま王宮も広々としてのんびりしたものだったが、最近では人の心もスサんで悪がのさばり、次から次へと罪人がやって来るようになった。地獄の土地も手ぜまになって大王も困っていたが、そこに目をつけた山師(ペテン師)どもが先をあらそって開発に乗りだしていく。ワイロとおべっかの妙術で役人に取り入り、極楽へと続く十万億土の荒地を片っぱしから切り開き、ついには地蔵菩薩が育てているナス畑にまで手を出すありさま。
数百里の池を掘って、染料で手っ取り早く赤くして血の池とし、山を築いてはつるぎのような木を植えてごまかし、うすで罪人をつく刑も水車を使って手間を省けば、焦熱しょうねつ地獄では大きなふいごを仕掛けて業火の代わりとする。さらに「等活とうかつ」「黒縄こくじょう」「叫喚きょうかん」「大叫喚だいきょうかん」「無間地獄むけんじごく」などのおなじみの地獄に加えて新趣向の地獄も登場し、「岡場所おかばしょ地獄」と称して繁盛している。
三途の川の婆も一人では手がまわらなくなったので、しかたなく長いこと地獄に堕ちていた浅草の一つ屋の鬼ババ安達ヶ原の鬼ババ、堺町の竹の子ババ、それに現世で嫁イビりをしていた性悪ババアどもにも手伝わせる。

根南志具佐 010

こうして地獄は、どんどん広がり賑やかになっていく。山師どもは新・地獄町の地権に目をつけ大家となったが、餓鬼たちはクソをしないからクソが売れないと文句をつけて、節句の銭を二百文にする決まりを役人に願い出る欲深さ。
罪人の舌を抜くはさみの手配、鉄の棒や火の車の請負い、釜を新調するときは古地獄で底が抜けたのを使いまわし、ロウソクの芯で竹の子を掘らせる苦行の材料も、ロウソク屋で出たクズですませば、たとえ個々の上がりはわずかでも地獄の年数は百万ごう(永遠)の気の遠くなる長さ──チリも積もれば山師どもの大儲けとなる。
脱衣婆だつえばが亡者からはぎとった着物もウラでコッソリ売りさばき、役人たちには便宜をはかって、虎の皮のフンドシの質入れでも法外な金をまわしてやる抜け目なさ。
自分たちが儲かれば社会もうるおうとトボけたことぬかし、官僚に取り入り、カタチばかりの申請書に本命のワイロをバラまいて、税金むしって私腹を肥やす──地獄の沙汰も金しだい──なんとあさましき世の中か。

さて、閻魔大王はさまざまなまつりごとに引っぱり出されて、少しのヒマもなく忙しくしていたが、そんな中、獄卒どもが地獄の紋がついた高提灯を先導にして、一人の罪人を引っ立ててきた。大王が高みの玉座からご覧になると、年のころ二十歳くらいの色白でヤセこけた僧が手かせ首かせされて、腰のあたりには何か風呂敷の包みをくくりつけている。

根南志具佐 011

「この者の罪は何か?」
大王がおたずねになると、人の善悪を記録する神・倶生神くしょうじんがそそくさと現れて調子よく罪をならべはじめた。
「ハイハイ、この坊主は大日本国、江戸の修行僧です。これが堺町さかいちょう(芝居と男色の街)の女形、瀬川せがわ菊之丞きくのじょうという若衆(男娼)の色に染められちゃってまあ、師匠の財産に手をつけるわ、寺宝の錦の戸帳とばりを道具市にひるがえすわ、行基の作の阿弥陀あみだ如来にょらいは質屋の蔵へご来迎──と、若衆(ゲイ)の恋のしくじり、尻のつまらぬ尻が割れ(バカな目をみて悪事がばれ)、座敷牢に押し込められてしまえば愛しい人にも逢えず、これを苦にしてあの世(人間界)を去って、めでたく地獄へやって参りました。しかし、死んでも忘れられぬは菊之丞の面影、肌身離さず腰につけたのは、当代きっての絵師・鳥居清信がえがいた菊之丞の絵姿です。
まあ、師匠や親の目をごまかして盗みを働いた罪はありますが、今どきの坊主ときたら表向きは抹香クサい顔してますが、ウラでは遊女狂いに浮かれのぼせて、鴨を明神、葱を神主などとカモネギ食らうナマグサばっかり。それに比べたら優童やろう(男娼)狂いは、まだかわいいほうで、そのバツはつるぎの山の責め苦からチョッと引いて、彼も大好きなお釜ゆでの刑あたりでどうでしょう。」

「イヤイヤ。」大王が不機嫌そうに答えなさる。「こいつの罪は軽いようにみえて、軽くない! シャバ(人間界)では男色というものがあるらしいが、オレにはこれがさっぱりわからん。男女の道は陰陽にもとづく自然なことだが、男と男が交わるなんてことはありえん!
唐土もろこし(中国)では、昔から『頑童がんどう(その道の少年)を近づけることなかれ』といましめている。まあ、それでも周の穆王ぼくおう慈童じどうを愛して菊座(肛門)ほまれとなったり、ほかにも、いろいろあやしいヤツはいるがな。
日本でも、弘法大師が流水に文字を書いたときに文殊もんじゅと契り、文殊は師利しり菩薩となってしまい、弘法は『若衆(ゲイ)の開祖』と恥ずかしい称号を得た。熊谷くまがい直実なおざねは、須磨の浦で敦盛あつもりを引きこかして『ハリハドッコイなされける♪』と歌われ、牛若丸は天狗にシメられ、後醍醐帝の阿新丸くまわかまる、信長の蘭丸らんまる、その名も高尾の文覚もんがくは、平家の遺児の六代御前にうつつをぬかしていらぬ謀反に巻きこまれ、頼朝のとがめを受けて『尻が来る(責任をとらされる)』という言葉を残した。
但馬たじま(兵庫)城崎きのさき温泉や箱根の底倉そこくら温泉へ多くの者が湯治に行くのも、みなこの男色が目当てだ。
むかしは、坊主だけが遊んだから『』という字は『やまいだれに寺』なのに、最近では僧も俗も関係なく、みんな引っくるめて楽しむこと、入れ込むこと、ハマること──まったくもってフラチである! 今後シャバ世界では男色を禁止するよう申し渡せ!!」

大王の怒りにみなザワついたが、そのうち十王のひとりの転輪王てんりんおうが、おずおずと進み出た。
「大王のご命令にさからうのは恐れ多きことですが、『思ってることを言わないと腹がふくれてしんどい』と吉田も言ってるので、私も言わせていただきます。
仰せのとおり、男色に害がないとはいえませんが、その害は女色に比べればたいしたものではありません。たとえれば、女色は『甘き蜜』ですが、男色は『淡き水』のようなもの……無味の味は、佳境に入った者しか味わうことができません。大王は若衆がお嫌いなので酒好きに甘い餅をすすめるようなものですが、菊之丞の評判、その絶色さは、この地獄にまで聞こえてきます。坊主がこの世の思い出にと抱いてきた絵姿を私も一目見たくてたまりません。どうかこの願い、かなえさせてください、ぜひ!ぜひ!」
目を血走らせて迫ってくる転輪王に、大王も少しひるんだようす。
たで食う虫も好き好きとはおまえのことだ。そこまで願うなら、絵姿を見るのは勝手にしろ。だが、オレは見ないぞ。若衆など見たくもないから、オレは目をつぶる。さあ、目を閉じてるあいだにサッサと絵を開け。」
大王がギュッと目をつぶると、転輪王は急いで絵姿を柱にかけた。

清きこと春柳しゅんりゅうの初月を含むがごとく
えんなること桃花の暁烟ぎょうえん(朝もや)
帯びるに似たり

みながゾロゾロ集まって来て絵をのぞきこんだが、その姿のあでやかさ──なんとも言葉にもならず、誰もが「はっ」と息をのんで魅入るばかり。人間界では天から降臨した天女を美しいというが、それは遠くの手の届かない花に憧れるようなもの。この国では、極楽の天女はいつも凧のように飛びまわっていて珍しくもないから、むしろ人間界の美しさにこそ惹かれるのである。菊之丞と見飽きた天女とを比べたら、まるで閻魔王の冠と餓鬼のフンドシのようなものだ。
聞きしにまさる菊之丞の姿、天下無双の美しさかな──と、十王をはじめ、見る目は目ん玉光らせ、かぐ鼻は鼻の穴ふくらませ、牛頭ごず馬頭めずなどは額の角をいきり立たせて興奮し、そこら中から感嘆の声が鳴りやまない。
まわりのどよめきに、さすがの大王もガマンできなくなったのか、コッソリ薄目を開けてのぞいている──と、たちまち目がまん丸になって、そのあでやかさから目がはなせない! さっきまでバカにしていたことも忘れ、魂の抜けがらのように呆然と見惚みとれて、思わず身を乗り出した拍子に高い玉座から転げ落ちてしまった。あわててみなで抱き起こしたが、大王は目もウツロに、しどろもどろだ。
「……みなの前で面目ないが……オレは、この絵姿の可愛らしさに胸がキュンとなった。まるで遍昭へんじょうの詠む歌のような気持ちだ。昔から美人と聞こえが高いものは大勢いたが、そんなものとは比べものにならん。西施せいしの目もと、小町の眉、楊貴妃の唇、かぐや姫の鼻、飛燕ひえんの腰つき、衣通姫そとおりひめの着こなし──すべて引っくるめたこの姿、花にも月にも菩薩にさえかなうものはない。まして、 唐土もろこしでも日本でも、こんな美しいものが二度と生まれてくるとは思えんから、オレは冥府の王位など捨てて、これからシャバに行ってこの若衆と枕を共にする……。」

「けしからん!」
大王がのぼせてフラフラ出て行こうとすると、 邪淫じゃいんの罪を裁く宗帝王そうていおうが立ちはだかって、しかめっ面で怒鳴りつけた。「色に溺れて冥府の王位を捨て、シャバで男と交わるなど言語道断! そんなことでは地獄、極楽のまつりごとを執り行うものもなくなり、善悪を正すこともできん。三千世界の民は何をもって教えを乞うのか!
とうといおん身が男娼やろう買いなんぞになり果てたら、極楽に満ち満ちている金の砂はたちまち堺町にぼったくられ、それでも足りずに『金のなる木がわしゃ欲しい…』と、極楽のセンセイ、お釈迦さまの黄金の肌までつぶして売っ払うハメになる。地蔵菩薩は長太郎坊主(盲目の乞食)のように子どものなぶりものにされ、びんが鳥(半人半鳥)は両国の見世物となり、天女も女衒ぜげんに売られ、三途の川の婆は海苔売り婆、仁王などは駕籠かごかきになるしかあるまい──これでは、地獄の破滅である!
それに、たとえ今どきの息子衆を見習って、短羽織に長脇差わきざし、髪は本田(オシャレマゲ)に銀ギセル──と、粋な男娼やろう買いを気取ってみても、とてもごまかせるようなお顔ではない。歌舞伎で海老蔵がそのお姿に似せて舞台に立っただけで、シャバの者はビックリして怖がった。もし、そのお顔で江戸の町をウロついたら、あっという間にウサンくさいヤツと召し捕られ、どこの者だと調べを受ければ『大家は釈尊、名主は大日でーす』とすっトボけても、どうせ相手にもされず無宿人扱いされてヒドい目みることまちがいなし!
これだけ言ってもまだわからぬなら、この宗帝王、この場で腹かっさばいてご覧にいれる。サァ、ご返答いかに!」

宗帝王が顔を真っ赤にして迫ると、後ろから平等王びょうどうおうが、いそいそと現れた。
「まあ、まあ、宗帝王さんのおっしゃることは、ごもっとも──まさに、木曽の忠太が義仲をいさめて腹を切ったような立派なご意見──ですが、大王さまは意固地なお方、いったん口にしたことはテコでも曲げねぇときた。どうせ何を言ったって、馬の耳に念仏、牛の角のハチときて聞きゃしません。
おとこおんなのアヤシげな魅力に取りつかれて王位を捨てるたぁ、俗世の息子衆のやるこってす。地獄、極楽のヌシたる大王さまのやるこっちゃありません。どうでやす、そんなに菊之丞がお望みなら、俗世に誰ぞ使いをやって、菊之丞めをとっ捕まえて来るほうが手っ取り早くすみやすよ。」
平等王の思わぬ提案に「そうだ、それがいい!」と、みなが賛同した。この案には大王も納得し、さっそくみなで顔つきあわせて菊之丞をさらう作戦を練りはじめた。

まず泰山王たいざんおうが、人の寿命が書いてある定業帳じょうぎょうちょうを取り出して調べだす。
「宝暦十二年十一月、佐野川市松、病死……宝暦十三年七月、中村助五郎、病死……。
どうも菊之丞はありませんね。まだ命が尽きるときではなさそうです。そうなると、誰かをやって無理やりさらうにしても、あの国には伊勢や八幡をはじめ菊之丞の氏神の王子の稲荷など、この地獄すら見下して屁とも思わない、おっかない姉御や親父連中がついています。表立って事を運べば、やっかいなことになりましょう。」
「なに、そんなことは簡単だ。」盗みにくわしい初江王しょこうおうが口をだした。「愛宕山の太郎坊や比良山ひらやまの次郎坊なんかの天狗連中にやらせれば、誰にも知られずとっ捕まえて来るなどたやすいこと。おい、誰か天狗どもを呼んで来い。」
しかし、五官王ごかんおうが反論する。
「イヤイヤ、それはあかん。情け知らずで乱暴者の天狗なんかにまかせよったら、力づくでひっつかまれて、せっかくのかわいいお顔がキズだらけにされてまうわ。ここは疫病神やくびょうがみを向かわせてはどやろ。」
こんどは変成王へんじょうおうが、かぶりを振った。
「イヤイヤイヤ、疫病神じゃ、素早く殺すことはできん。少しずつ身体を弱らせ、のんびり殺していては、大王も待ち遠しくてたまらんだろう。それより手っ取り早いのは、俗世に大勢いる医者どもを使うことだ。ヤツらなら疫病神なんかより、はるかに殺しがうまい。」
「そりゃ、もっとも」と、全員がうなずく。
さっそく、よく人を殺す医者は誰だと相談をはじめた。
「まず、まったくの無学な医者はダメだ。ヤツらは怖がって、まともな薬はめったに盛らない。どんな病気だろうとロクにもせず、当たりさわりのない薬をほんのちょっと使うだけで、これじゃただの白湯さゆだ。一服いくらの謝礼のことしか頭になく、毒にも薬にもならなきゃ人を殺すこともできん。」
「そやけど、ちょっと学んだエラそうな医者なら人を殺すのが商売やさかい、たった一服でも効果バツグンでっせ。」

「イヤイヤ。」玉座で黙って聞いていた大王が首を振った。「最近の医者どもは書物を拾い読みするだけでまともに学ぶ気もなく、古医書の会にいっぺん行っただけで、自分から古方家こほうか(古医術家)や儒医(儒学者でもある医者)などと名乗りだすしまつ。病は見えず、薬は覚えず、やたらとキツイ薬を処方して殺すもんだから、ここへ送られて来たときには、もう青白くヤセこけて地獄の亡者どもと見分けがつかん。最近の医者は、おのれの無学もかえりみず、昔の唐土もろこしの名医にでもなったつもりでエラそうにしているが、しょせんのマネをするカラスだ。こんなヤツらにまかせたら、かわいい菊之丞も薬毒にあたって花の姿も変わり果て、ヤセおとろえて火箸ひばしに目鼻になっちまう。
……どうか無事に取り寄せ、ふたり仲良く手枕かわしてシャバと冥土の恋物語……ああ、早く日本ひのもとの若衆の柔肌に触れてみたい。どんな手を使ってもいいから、サッサと連れて来てオレの願いをかなえてくれ。」
遠い目をして菊之丞を想う大王だが、さすがの十王たちも万策つきたのか、いい手が浮かばない。
「どうも、われらは悪事には向いてないらしい。ここは修羅道へ使いを立てて、その道の専門家の手を借りたらどうだ。あそこには、太公望、孔明、韓信、張良、孫子、呉子、 義経よしつね正成まさしげ道鬼どうき武則たけのり──と、手練れの軍師がゴロゴロいる。」

すると、今まですみっこでジッとしていた──色赤くまなこ光って鏡のごとく、口は耳までさけた──首だけの者がフワフワと飛んできた。これは、人の一生を見届けて善悪を監視する「見る目」である。見る目はゆっくりと大王の前に進み出た。
「こんなことで修羅道の手を借りたら、この地獄界の恥でごんす。そんなことをしたら、ヤツらの知略、計略で、たちまちこっちの腹の底まで見透かされ、どんなはかりごとをされるかわからんでごんすよ。小夜嵐さよあらしの騒動のあと、ずっと太平の地獄界が再び乱世になったら、閻王えんおうから獄卒にいたるまで、たいへんな目に合うでごんす。この平和な地獄に軍者ぐんしゃを引き入れてはダメごんす。
オイラは人の肩にとまって善悪を正すのが役目だから、人の思っていることがわかるでごんすが、菊之丞は、近いうちに役者仲間と連れだって舟遊びに行くようでごんす。この機を狙えば、ラクに菊之丞が手に入るでごんすよ。」
「それは好都合だ。」大王も納得したようす。「川の中ならコッソリ連れ去ることもできよう。よし、急ぎ竜宮へ使いを出して龍王を呼んでこい!」
大王の命令で、地獄で一番足の速い足疾鬼そくしつきが駆け出す。足疾鬼そくしつきはあっという間に千里進んで千里戻り、まもなく八大龍王の頭領、難陀なんだ龍王が参内した。龍王は、頭に金色の竜をいただき、瑪瑙めのうの冠に瑠璃るりの飾り、珊瑚さんご琥珀こはくの石の帯、玻璃はりしゃく持ちタイマイ(亀)くつはいて、まわりに異形の魚たちを従えてやって来た。
玉座の前でウヤウヤしくひれ伏す龍王に大王が声をかける。
「しばらくだ、龍王。今回呼び出したのは、べつに正式な沙汰じゃない。じつは…こっぱずかしい話だが、オレが想いを寄せる恋人が日本の江戸にいる。瀬川菊之丞という美少年だが、これを手にするためにいろいろ手立てを考えてみたが、どうもうまくない。だが、この菊之丞が近いうちに舟遊びに出るらしい。水の中ならおまえの領分だ。急ぎ召し捕ってこい。」
「ご命令、かしこまりました。私の配下には、ワニやサメをはじめ、カッパ、カワウソ、海坊主など、人をさらうのが得意な者がいくらでもいます。この者どもへ申しつけて、さっそくその若衆を召し捕り、大王の願いをかなえて差し上げましょう。」
「それはよかった。」大王は大いに喜んだ。「そんなら菊之丞が来るまでオレは奥に引っこんで、天人どもの三味線でも楽しむとしよう。今後罪人が来ても、そこそこ罪の軽いヤツは追い返して、重いヤツらは六道の辻の牢にでもぶち込んでおけ。
そういえばさっきの坊主だが、菊之丞の色香に溺れたことは、はじめはとんでもないと思ったが、若い者にはありそうなことだ。オレも人のことは言えなくなったし、罪は問わずにシャバへ返してやれ。しかし今後、菊之丞を買うことはまかりならんぞ。弁蔵、松助、菊次あたりでがまんしろ。それに、湯島天神や芝の神明宮でならいくらでも遊ぶがいい。」

そう言って大王が奥に引っこむと、玉座の幕がサッと下りた。みなも退出して、龍王も竜宮へ帰っていく。

注釈

荻野八重桐
歌舞伎役者。二代目。女形。この本の出版される半年ほど前、船遊び中に隅田川で溺死した。38歳。
十王
冥府で死者を審判する十人の王(閻魔王も含む)。王ごとに裁く罪が決まっていて、順に裁判が行われる。
おなじみの地獄
犯した罪によって堕ちる地獄が決まる。責め苦は下へいくごとに×10。
等活 殺生
黒縄 殺生・盗み
叫喚 殺生・盗み・邪淫・酒
大叫喚 殺生・盗み・邪淫・酒・嘘
無間地獄 地獄最終形態。悪どい政治家や官僚とその取り巻きの行き着く先。救いようがない。
岡場所
江戸の私娼街。深川の埋立地に新しくできた岡場所が「地獄」と呼ばれた。
一つ屋の鬼ババ
江戸の町ができる前、荒れ野の浅草での鬼婆伝説。
安達ヶ原の鬼ババ
福島県二本松に伝わる有名な鬼婆。
竹の子ババ
飯炊き女から成り上がり、蔭間茶屋や金貸しで大金持ちになった強欲ばあさん。金儲けのスキルは神わざ。この話の13年前に死去。
クソが売れない
糞尿は肥料として売れたので、長屋の共同トイレは大家の副収入。餓鬼は常に飢えているが、ものが食えないのでウンコはしない。
節句の銭
節句や盆暮れに借家人が家賃とは別に大家に付届けする金。
瀬川菊之丞
歌舞伎役者。二代目。若女形の筆頭で絶大な人気を誇った江戸のアイドル。この話のとき23歳。
女形の役者は色を売ることもあったが、きわめて高額。
鴨を明神、葱を神主
賀茂明神と神職の禰宜(ねぎ)。江戸時代までは神仏が習合していたので、僧職と神職はあまり区別されない。
慈童
古代中国、周の穆王(ぼくおう)に寵愛された小姓。菊の葉の露を飲んで不老不死となる。(能『菊慈童』)
師利菩薩
文殊菩薩の別名。「尻ぼさつ」として、よく男色物でいじられる。空海が川の流水に龍の字を書いたとき、文殊が童子となって現れ欠けていた点をうつ。空海が中国から日本に男色をもたらしたという風説は昔からあります。
熊谷直実
鎌倉初期の武将。平家追討の戦で、まだ幼い平敦盛(たいらのあつもり)を、そうとは知らずに討ってしまう。「ハリハドッコイ~」は不詳。
続いて列挙される歴史上の人物は、衆道(ゲイ)界の妄想をかき立てた英雄たち。
吉田も言ってる
吉田兼好『徒然草』第十九段。
「おぼしきこといはぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ…」
見る目・かぐ鼻
閻魔庁にいる男女の人頭。亡者の善悪を判断する。
牛頭馬頭
頭が牛、頭が馬の地獄の鬼。
遍昭
平安前期の僧・歌人。六歌仙の一人。
紀貫之が、遍昭の歌は真実味にかけ「たとえば絵にかける女を見て、いたずらに心を動かすがごとし」と評している。元祖2D萌え。
西施
中国春秋時代の伝説の美女。王が夢中になり国が傾く「傾国の美女」。
他の女性も、みな日中の名高い美女たち。飛燕は中国漢の成帝の皇后で踊り上手。衣通姫は允恭天皇の皇妃のオシャレ美人。
木曽の忠太
越後忠太。京で義仲軍が鎌倉軍に攻め込まれそうなときに、京女にうつつをぬかす義仲を腹を切っていさめた。(平家物語)
手練れの軍師
呉子までは古代中国の軍師。あとの日本人は、源義経、楠木正成、山本勘助(道鬼)、糟屋武則。
小夜嵐
井原西鶴の小説。地獄に堕ちていた源平の武将たちが反乱を起こして閻魔軍と戦う。
弁蔵、松助、菊次
歌舞伎役者。市川門之助、尾上松助、沢村菊次。
湯島天神や芝の神明宮
どちらも門前に陰間茶屋が並ぶ男色地帯。