自序
唐人の「陳紛看」
天竺の「」
紅毛の「SuTuHeLHoMu」(すっからかん)
朝鮮の「무자리구자리」
京の男は、口髭はやしたイカつい野郎も、
「あのおしゃんすことわいな」
(まあ、ひどいことおっしゃるなぁ)
江戸の女は、紅つけた清楚な口から、
「いまいましい、はっつけ野郎!」
(ムカつくクソやろう)
──と、たとえ言葉はちがっても、食って糞して寝て起きて、死んでしまう命と知りながら、やたらに金を欲しがる人情は、唐も日本も昔も今も変わることなし。
聖人は「学べば、やがて稼げる」と、うまいこと云って食いつかせ、仏は黄金の肌を輝かせて物欲をアオり、初穂料なしには神道の祈祷さえ頼めない──これみな、金がすべての世の中である。
ある日、貸本屋の某が何か書いてくれと頼みに来た。その真意をさぐれば、どうも金儲けがしたいらしい。このオヤジ『欲しがる病い』にかかって重症のようだ。これを治すには鍼灸も薬も役に立たないので、儒教をもって諭してみたが──オヤジが言う。
「聖人はものを食わない。」
神道をもって諭せば、また言う。
「貧しくて正直になれない。」
仏法をもってすれば、またまた言う。
「死んでからのことより今が大事。そんなら、いっそ鉤と縄をくれ。食っていくのも大変だから、家内の口を天井につるして、ものを食えないようにしてから教えを受けよう。」
…返す言葉もないので、あきらめて筆をとることにした。この本を著し、名づけて「根南志具佐」とする。
釈迦の鳩の卵、老荘の戯言、紫式部の虚言八百にはとてもかなわないが、ただ人情を論ずるだけなら、まあそれはソレ、これはコレだろう。
安本元年虚月三十一日
天竺浪人誌す