お江戸のベストセラー

東海道中膝栗毛発端とうかいどうちゅうひざくりげのはじまり

現代文

そのうち医者が来るやら、灸をすえるやら、よってたかっていろいろ試してみたが、無残や…おつぼは顔色も真っ白になって、とうとう生き絶えてしまった。
喜多八は鼻水たらして泣きじゃくる。
「かわいそうに…ぐすん…身重の体に騒ぎがこたえたんだろう…ぐすんぐすん…。ときに弥次さん、おめえも腹が立ったろうが、どうぞかんべんしてこの後始末をしてくんなせぇな。」
「おれに世話ばかりかけやがる。」
「なんぼ勘当同然の娘でも、こうなっては親元へも知らせなきゃなるめぇ。誰をやったものだろう。」
芋七は、釈然としない顔をしている。
「そりぁ、わしでも行ってやろうが、ぜんてぇ、これはどういうわけだ? さっぱりわからねぇ。おらの近所の魚屋が、預かってるどこぞの隠居の妾を片付けたいと頼むから、ここへ世話したが、今聞けばそれがおめえの女という。これはどうしたわけだ?」
「まぁ、気にするな。その魚屋というのは、おいらの親方のところの出入りの魚屋。預けておいたのは…やっぱりおいら。それよか早く親のところへ知らせてぇ。その魚屋に言えば、そこから親元へ知らせてくれるはずだ。」
「そんなら行って来やしょう。」
芋七が出て行くと、近所の衆も手伝ってそこらを片づけ、それぞれ悔やみを述べて帰って行った。

「なんにしろ、わっちはちょっと戻りやす。夕べ、コソッと抜け出たままだから。あとはいいようにたのみます。」
喜多八が紙入れ(財布)から金二歩を出し、弥次郎に渡して出かけようとすると、向こうから仕事仲間の与九八が現れた。
「おや、喜多八どの、ここにいたか。親方がとうとう今朝方ご臨終なされた。」
「そうだろうとも。」
「それで、おかみさまがおっしゃるには、喜多八にはいとまをだす。あれは性根のみだらな男。旦那さまが亡くなり、女の主人と軽くみて、よからぬことをしないでもないからサッサと請人のところへ返してやれと言う。それはちょっと…と、いろいろ取りなしてみたが、どうもきさまは、かみさまへなんぞイヤらしいことでも言ったとみえる。『日ごろからイケすかねぇ』『ツラの皮の厚い男』『もう顔を見るのもイヤ、イヤイヤ!』と、取りつくしまもねぇから仕方がねぇ。
もし、請人の弥次郎兵衛さまはあなたか。ただ今お聞きのとおりでござりますから、喜多八どのはこれでお渡し申します。」
「承知いたしました。コレ、喜多八。このとおりだが、それでいいか。」
喜多八は放心して、立ちすくんでいる。
「…いや、もう、よくても悪くてもかまわねぇ…しかし、こんなハズではなかったのに…。」
「よくよく、いめいめしい恥さらし野郎だ。いっそのこと何もかもぶちまけて(バラして)やろうか。」
「ああ、コレ、あやまる、あやまる。おがむ、おがむー。」
「また折をみて、言いたいこともあるだろうが、何にしろ今日は取りこんでいるから、またそのうちに。」
挨拶もそこそこに与九八が帰って行くと、入れちがいに芋七が戻って来た。
「さぁ、親元へは知らせてきたが、これからいろいろ買い物をしなきゃなるめぇ。」

喜多八は弥次郎に渡した金を返してもらい、芋七を引き連れて取り急ぎ早桶はやおけやそのほか入用の品々を買いそろえて来た。
「おや、てめえは気のきかねぇ。ついでに酒も買ってくればいいのに。」
弥次郎に言われて、喜多八は早桶はやおけの中から一升徳利とっくりとマグロの刺身を取り出す。
「それを忘れるものか。」
さっそく三人で呑みはじめると、そのうち長屋の連中もゾロゾロやって来て大酒盛りとなる。酒もどんどんやってきて、みなでベロベロに酔っぱらった。

「サァサァ。」酒もだいぶ入ったころ、芋七がヨロヨロと立ち上がった。「このいきおいで仏を桶へさらけこんで(入れて)しまおう。ところで弥次さん、寺はどこだ。」
「バカぁ言え、おいらに寺があってたまるか。」
「そいつは困った。」
「かまうこたぁねぇ。とにかく担いで歩き回りゃあ、どっかに寺があるだろう。」
弥次郎がてきとうなことを言うと、よこから喜多八も口をはさむ。
「そうはいっても、棺おけ担いで寺町で売り歩いたところで、買い手はあるめぇ。」
「いや、それもわるくねぇ。」芋七がのってきた。「わしは寺町ばかりへ商いに行くが、ここらへんとは売り名がちょっとちがいやす。まぁ、今ごろの品なら、『死んでいこ(新大根)』『幽れんそう(ほうれん草)』『化けぎ(分葱)』、それに卒塔婆そとばの干物や石塔の立売たちうりなぞはよく売れるから、棺おけも買い手がありましょう、ハハハ。」
「シャレるとこじゃねぇ。おつぼがかわいそうだ。サァサァ、早く片づけてくんなせぇ。」
喜多八が声をかけると、酔っぱらいどもがよってたかって、無駄口たたきながら仏を桶の中に押しこんだ。

線香をたいて花を手向けていると、おつぼの父親てておやが涙をふきふきたずねて来た。
「あい、ごめんくださりまし。わしゃあ、おつぼの親でござらぁ。」
喜多八が出迎える。
「これはようこそ。まず、こちらへ。」
「やれやれ、かわいそうなことをしおりました。わしゃあ田舎もんでござるから、頭が固くて、情け容赦なく追い出してしまいましたが、こんなことになるべいたぁ思いもせなんだ。どれどれ、娘はどこにおります。ちょっくりつらさぁ見せてくれさっしゃりまし。」
弥治郎が困ったようすで答える。
「ええ、おめえ、もうちっと早く来なさればいいに。もう桶の中へさらけこんでしまった。のう、芋七。」
「イヤ、しかし、とっさんの身では見たいのもしょうがねぇ。されば、ご開帳いたそう。」
芋七が早桶のヒモをほどいて仰々しくフタを開けてやると、オヤジは眼鏡をかけてマジマジとのぞきこんだ。
「コリャ、はぁ? ちがったもし。」
「は? ちがった? 何がちがいやした。」
「仏がちがい申した。この仏にゃあ首がござらない。そして、わしの娘は女でござるに、コリャ男の死人とみえて胸毛が生えてござる。」
「首がない?」
あわてて芋七も横からのぞきこむ。
「どれどれ……!? ほんにこりゃあ首がねぇ! 弥次さん、おめえ首をどうした。」
「なに、おいらが知るものか。そこらに落ちてねぇか。」
「ヤレヤレ、ここの連中はとんだ人たちだ。おらが娘はどうした。死んだの何のと嘘ばっかしつかっしゃる。さぁ、娘をここに出しなされ。」
「出せと言われても、仏はほかにゃあねぇ。あきれたオヤジめだ。」
「いゃあ、とっさんの言うのはもっともだ。首がなくちゃままならねぇ。」
酔っ払いどものいいかげんな対応に、オヤジも怒りだした。
「いんね、いんね(やいやい)! 田舎もんだと思ってバカにするでねぇ。われはかしら百姓もしたことあるもんだ。大家どのに頼んで、えずい(ひどい)目に合わせてくれるべい!」
オヤジはだんだん声高になって、やかましくわめき立て、まわりの者がいくらなだめてもおさまらない。やがて、騒ぎを聞きつけて大家もやって来た。
「さてさて、今聞きましたが大変なことでござる。何でも、死んだ者の首がないとは。」
大家は棺おけの中をのぞき、じっと見る。
「…………。いやいや、オヤジどの。心配さっしゃるな。首はあります。」
「あるとは、どこにあります?」
「こりゃあ、仏を逆さまにに入れたのでござる。」
驚いてオヤジものぞきこむ。
「…………。ははぁ、なるほど。それで落ち着きました。どなたも、お騒がせでござる。」

やがて夜も更け葬礼も終わり、仏をねんごろに弔った。

さて、喜多八はせっかく辛抱して勤めた親方のところを追い出され、また弥次郎の居候となってしまったが、おたがいつまらぬ身の上に嫌気がさし、いっそのこと厄払いにお伊勢参りでもしようと思い立つ。友だちに頼んで金を借り、まずその年はめでたき春を迎えて、如月きさらぎ(二月)のなかば──二人仲良く東海道へと旅立った。

旅立ちの狂歌
 難波江のよしあしくとも旅なれば
 思い立つ日を吉日とせん

東海道中膝栗毛発端 

東海道中膝栗毛発端 060

注釈

早桶
粗末な棺おけ。丸い樽型。
難波江のよしあしく
難波江に生える葭(よし)や芦(あし)と「善し悪し」をかける。
〈大意〉
暦の善し悪しなど気にせず、思い立った日を吉日として旅立とう。