お江戸のベストセラー

東海道中膝栗毛発端とうかいどうちゅうひざくりげのはじまり

現代文

そのうち日も暮れたので行燈あんどんを灯し、弥次郎が茶漬けを食いかけたとき、いきなり入口の戸が開いて年のころ五十ぐらいの侍が旅姿で現れた。
「イヤ、突然失礼いたす。駿河の府中からおざった弥次郎兵衛どのは、ここでおざるかャア。」 
おふつが出迎える。
「はい、こちらでござりますが、どっからおいでなさいました。」
「イヤハイ、あやしい者ではおざんないャア。」
侍が三十くらいの女を連れて入りこみ腰をかけると、弥次郎はキモをつぶして驚いた。
「これは! 兵太ひょうた左衛門さえもんさま。妹御まで連れて、どうして江戸に。」
ひょうご左衛門さえもんだ。どうしてたぁ、つれない挨拶。このいんもうとめをきさまの嫁にするために連れて参ったのでおざるャア。きさま国元で、わがいもうとのおたこと密通していたというではないかャア。後で聞いて腹が立ったが、ただ一人のいもうとのこと、どうしたわけだかきさまでなくては添わぬと申すから、かわいそうになって堪忍袋をなで下ろし、好いた男に添わせようと、わざわざ召し連れておざるャア。この上は、よくよくいもうとめを可愛がってくだされ。まずは、祝いの酒で盃をかわそう! サァサァ、早く早く!」

東海道中膝栗毛発端 030

「おやおや。」おふつがあきれ顔で答える。「おめえさんがどなたかは知らねぇが、とんでもねぇ。だいたい男というものは、女と見れば言い寄って来世の約束までして、もっともらしくダマすのがお決まりの手口。それをうのみにして駿河からわざわざ嫁入りに連れて来るとは、バカバカしいじゃありませんか。
妹さんも妹さんだ。こんな男のどこがいいのか。わたしはしかたなく連れ添っていますが、色が黒くて、目が三角で、口が大きくて、ヒゲだらけで、腹にタムシがべっとりで、足はザラザラ。おまけに寝息のクサいことクサいこと。」
「ヤイ、ヤイ、ヤイ! こいつめが亭主のことをめちゃくちゃ言いやがる!」
「オホホホホ、それでも男というものはどうしようもねぇもので、女なら誰でも口説くので、中にはダマされてその気になった人もありましたろうが、あんまりパッとした男でもないから、おまえさんがたのように後を追って来た人は、ひっとり(一人)もござりません。この狭いうちに女房が二人も三人もいたら、大家から床が抜けると言われて追い出されるでしょう。人に気づかれねぇうちに、妹さんを連れて早くおけえりなされ。」

「イヤハヤ、先程からツベらコベらと、この女中はよくしゃべる。その方は何者だい?」
「あい、わたしかぇ、弥次郎兵衛の女房でござります。」
「アニ?! 女房だ! そんなもんは見たくもない。これっ弥次郎兵衛、おぬし女房を持ったか? ヤレヤレしかたがない、縄にかかれ! 国元へ引っ立てる!」
侍がいきなりふところから捕縄を出して飛びかかった。弥次郎は、やっきになって抵抗する。
「なに! 縄にかかれたぁ、どういうわけだ。わっちが女房を持ったからといって縄をかけられる理屈があるか! とほうもねぇ! 鯵切り二本(大小の刀)差しなさったからって、それが恐ろしいもんでもござりゃせんわ!」

「いや、おぬし、そう興奮するな。」弥次郎の剣幕に侍も少したじろいだようす。「コリャ、よく聞け。今日いもうとを連れて来たのは、ご家老の命によるものぞ。
いいか、先日同僚の横須賀利よこすか利金太りきんだ方より、このいもうとを妻にもらいたいと申し出があった。わが家にとってもありがたい話なので、われも喜んで結納までおさめたところ、このいもうとめは、そなたと夫婦の契りを交わした身、たとえ親兄弟の指図でもほかへ嫁ぐのはイヤだと言う。たまげた、たまげた! だが、しょうがないので利金太りきんだ方へ使いを出して、妹めが男と密通していたことは神にかけて知らなんだ。それゆえ結納まで受納いたせしは不覚のきわみ。かくなる上は、妹めの首を切って持参いたせば、それにて面目を立てられよと伝えたが、先方が怒って言ってきた。
『親類はじめ同僚どもへも妹御を妻にすることはもう知らせてある。これでは世間体が丸つぶれ。女の首ひとつ受け取っても何の役にも立たん。この上は、そなたとの果たし合いで決着するしかあるまい。明晩、安倍川の河原で勝負を決す!』
もとよりわれも覚悟の上なので、いかにも承知したと返事をしたところ、ご家老が双方を召して仰せられた。
『長年、殿に仕えながら私事の都合で果たし合いをするなど、殿へ対しての第一の不忠。妹が隠れて男をこさえたのを知らずに嫁がせようとしたのは、不届きとまではいえぬ。まだ婚礼前のことなので、互いに面目のつぶれることもあるまい。今後、両人遺恨を捨ててご奉公を大切につとめられよ。また妹のおたこは、約束した男でなければ嫁ぐまいという心意気、まことに貞節のいたり。殿も不憫ふびんに思われ、しんそこ惚れた男に嫁がせよとの御意である。』
これをありがたくお受けして、ここまでやって来たのに、その男に女房がおったからといって、この兵五左衛門、どのつらさげてスゴスゴ帰られようかャア! サァ!いもうとめを妻にいたせばそれでよし。イヤだと言うなら縄かけて国元へ引っつれ、利金太りきんだ方へおのれを渡さねば武士の面目が立たん。サァサァ! あきらめて縄にかかれ! それとも踏みつけて召し捕ろうか!」

「はあ、なるほど。おっしゃることはごもっとも……」弥次郎が開きなおる。「……ですが、それはおめえさまの勝手な都合。たとえこの身が三枚におろされ、切り刻まれて塩辛になろうとも、われを大切にして苦労してくれたこの女房を捨てて妹御を嫁にもらえるものか! しかたがねぇ、どうとでもご勝手になせぇまし。」
弥次郎は覚悟して両手を後ろへまわした。兵五左衛門が縛ろうとすると、女房おふつがすがりつく。
「もし!もし! 先程からのようすを見ますれば、ごもっともなこと。しかしながら、夫が縄にかかってながの道中で恥をさらし、お国でもしも命にかかわることなどあったら、わたしは悲しくてたまりません。今、おまえさんは、たとえこの身がどうなっても苦労させた女房は捨てられぬと言いなさったが、わたしにはそれで十分、もう何も言いますまい。わたしにはいとまをくださりませ。この妹さんは駿河からの馴染みというなら、わたしよりは前のこと。添いたいとおっしゃるならしかたのない。
さあ、ここまで言ってもいとまをくれず、お侍さまの手にかかるつもりなら、まずわたしから先に死にます!」
おふつが流しもとの包丁を取ってひねくり回せば、弥次郎があわてて押さえる。
「コリャコリャ、何をする、バカものめが!」
「イエイエ、それでも!」
「やれやれ、それほど思いつめたことならしかたがねぇ。ちっとのあいだいとまをとって、親元のところへでも行っていてくれ。大事な女房を今さら捨てるなどとは夢にも思わねぇ。こんなことになったのも、みんなおれがわりいからだ。」

さすがの弥次郎も気のどくになったのか、部屋のスミでいろいろ言い含め、やがて硯箱を取り出して三行半みくだりはん(離縁状)を書けば、そこは貧乏人の気安さ、着の身着のまま櫛箱くしばこに風呂敷包みひとつかかえて、おふつは涙ながらに、しおしおと出て行く──と、いきなり兵五左衛門が刀を放りだしてくつろぎだした。
「ヤレヤレ、肩の荷がおりた。どうだ弥次さん。わしの芝居は、なかなかでありましょう。」
弥次郎もホッとしたようすで答える。
「トボけた駿河弁には恐れ入りさ。田舎侍のサマも、たとえ目利きの質屋でも百石取りと値ぶみするいいできだ。芋七いもしちも、ただの棒手振ぼてふりにしておくのは惜しいもの。それに、これまた矢場のおたこの田舎娘のフリも絶妙だった。
今度のことは、みんなおれの自作の猿芝居。二人にたのんで女房にいっぱい食わせて追い出したのも、あの陰気ものにアキアキしてたからのこと。それに、急に十五両という金が必要になったからで、芋七、きさまの話はでぇじょうぶだろうな。」

注釈

横須賀利金太
嫁を[よこすか]と[力んだ]。
棒手振
天秤棒を担いで物を売り歩く商売人。
矢場
小弓を使った遊戯場。