お江戸のベストセラー

東海道中膝栗毛発端とうかいどうちゅうひざくりげのはじまり

現代文

弥次郎と喜多八が話しこんでいると、いきなり半びつのフタが開いて、おつぼが叫びだした。
「もし!もし! 助けてくださりませ。腹が痛くて産まれそうになりました。ああ、苦しい、苦しい!」

東海道中膝栗毛発端 050

「ええい、そいつは困った。」苦しそうにうめくおつぼを見て、弥次郎もあわてる。「コレコレ喜多八、てめえ子を産む女の手伝いをしたことはねぇか。」
「なに、とんだことを言う。いつの間にかみさんに子供ができたのだ。さっぱり知らなんだ。隣のかみさんでも起こして頼むがいい。」
「イヤイヤ、ちっと訳ありで隣にも知られたくねぇ。コッソリとやりてぇが、まぁ、そこへ湯でも沸かしてくれ。」
「それはいいが、なぜまた、こんな窮屈なところへかみさんを入れておいたのだ。さぁ、出なせぇ。」
喜多八が半びつの中から女の手を引っぱって出してやると、おつぼが喜多八を見て目を丸くした。
「やあ、おまえか! 嬉しや!嬉しや! わたしのお腹を心配して、ここまで来てくださりましたか。」
いきなり喜多八にしがみついたおつぼを見て弥次郎は驚いた……が、すぐに不審がる。
「コリャ、喜多八。てめえこの女を知ってるのか?」
ビックリして固まっている喜多八にかわって、おつぼが答えた。
「はい、わたしはこの喜多八さまのいるお屋敷で、おまんま炊きをしておりましたが、イヤだと言うのにムリやり喜多八さまに口説かれ、ついほだされてこんな身になってしまいました。しかたなくお暇をもらって親元へ帰りましたが、キビしい親のためうちには入れてもらえず、喜多八さまの手配でよそへ預けられておりましたが、喜多八さまは、このことが親方さまの耳に入らないうちに、わたしに十五両の金をつけて片付けたいとおっしゃります。わたしはこうなったからは、いつまでも離れぬ覚悟でおりましたが、それでは喜多八さまのためになるまいと決心して、泣く泣くここへ嫁いで来たのでござります。」
涙を流しながら苦しそうに語るおつぼの話に、弥次郎はキモをつぶした。
「ナニッ! そんなら親方のところで使い込んだ金──十五両なくては穴うめできぬと言った金は、使い込みではなく、この女の片付け金のことか?」
「そう、そう。」喜多八がようやっと口を開いた。
「え、え、え…。」弥次郎は、顔を真っ赤にして口をパクパクさせている。「ええい! おきゃあがれ! このべらぼう野郎め! よくもおれをとんだ目にあわせやぁがったな!」
「なに、とんだ目にあうものか。こりゃおどろいたが、嫁ぎ先がおめえなら金がかからなくていいじゃねぇか。」
「いいとは何のことだ、その金のせいで、おらぁ古女房を追い出しちまって、今夜から一人で寝にゃあならねぇ!」
「そのかわり、若い女房を譲ったから文句はあるめぇ。」
「たわごとぬかすな! あの女のツラが二目と見られるツラか、いめいめしい野郎だ!」
弥次郎がたまらず喜多八に殴りかかれば、喜多八も負けじともみ合いになる。おつぼは産気づいて苦しがり──やがて夜も明ける。

芋七が商売物の仕入れに行こうと通りかかると、何やら弥次郎の家がドタドタと騒がしく、中から女のうめき声も聞こえてくる。
あわてて戸を叩いたが返事もなく、しょうがないので外から戸をひっぱずして中に入ると、芋七を見て弥次郎が突進して来た。
「ヤァ、芋七か! このやろうめ、喜多八となれ合っておれをハメたな! 許さねぇ! 許さねぇ!」
芋七は面食らう。
「なに、ハメたとは何のことだ?」
「何のことだもあつかましい。ふてぇやつらだ!」
弥次郎は芋七に飛びかかったが、力のある芋七にあっさりとねじ伏せられてしまった。それでも手足をバタバタさせて暴れる弥次郎を喜多八も押えこもうとして、煙草盆を踏みくだくやら、ドビンの茶をぶちまけるやら、しっちゃかめっちゃかの大乱闘。そのうち近所の連中も集まって来て、みなが入り乱れての大騒ぎとなる。

おつぼは苦しがってそこら中をのたうち回っていたが、ついに目を回して動かなくなってしまった。
「やぁ、おつぼ、どうした? どうした?」喜多八があわててかけよる。「芋七来てくれ! かわいそうにぐったりして動かねぇ。」
「こりゃ、目を回したのだ。コレコレ、水だ、水!」
「おつぼ、やーい。」
喜多八と芋七がおつぼを介抱していると、隣の亭主がのぞきこむ。
「おつぼさまとは誰のことだ? もし、ここのかみさまは?」
「コレ。」芋七がおつぼを指差す。「この目を回しているのが、かみさま。」
「はあ?」亭主がキョトンとする。「弥次さん、おめえのおかみさまか?」
弥次「アイ、わっちの女房のようでもあり…ないようでもあり…。」
「はあ? 喜多八さんのかみさまか?」
喜多「アイ、わっちのかかあのようでもあり…ないようでもあり…。」
「ハテ? どっちのだか知れねぇ。」
「こりゃ冷たくなったてきた。」おつぼの顔色をうかがっていた芋七がつぶやいた。「もういけねぇ…。」
「ええ、かわいそうなことをした。」喜多八が、おつぼを抱きかかえて叫ぶ。「弥次さん、医者を呼びにやってくんなせぇ!」
「わたしが元宅げんたく先生でも呼んで来てあげましょうか。」
隣の亭主がそう言うと、弥次郎がふてくされたように答えた。
「ついでに、お寺へも行ってもらいてぇな。」