武蔵野の 尾花がすえに かかる白雲
武蔵野の広大なススキの原野が歌に詠まれたのも、昔むかし、まだ定家や西行が浦の苫屋や鴫立つ沢の夕暮れを愛でていたころのこと。
今や夕景色は、吉原仲の町の雑踏にかわり、井の中に鮎が泳ぐ水道が町中を流れ、土蔵の白壁立ち続く大江戸の賑わいっぷり。所せましと家々が立ち並び、漬けもの桶や明俵、破れ傘の置き所からも地主が金をふんだくれば、そりゃ他国から見たら大道に金銀でもまき散らしてあるのかと思って、「どれ、ひと稼ぎ」と後から後から人がやって来る。
その中に、駿河国(静岡県)府中生まれの栃面屋弥次郎兵衛という者がいた。親の代からの立派な商人で、百、二百の小判にはいつも困らぬ身分だったが、安倍川町の色酒におぼれ、旅役者の華水多羅四郎の弟子、鼻之助という若衆(男娼)に入れ込んで──その道にハマる。黄金のカマを掘り当て、夢ごこちでアホウのかぎりをつくせば、やがて身代にもトホウもない大穴を掘りあけ、尻のしまいは若衆とふたり、尻に帆かけて府中の町を夜逃げする。
借金は富士の山ほどあるゆえに
そこで夜逃げを駿河ものかな
こうして二人は、人を足久保茶にするような軽口をたたいて江戸の町にやって来た。
神田八丁堀の裏長屋の小借家に住みつき、少しの貯えにまかせて江戸前の魚の美味を食いまくり、豊島屋の銘酒剣菱の空き樽を長屋の手洗い桶として配ること数知れず。ついには有金ぜんぶ呑みつくし──これはマズいと、鼻之助を元服させて喜多八と名乗らせ商家へ奉公に出したが、喜多八は、これでなかなか気の利くヤツなので、主人にも気に入られてちょっとは小金もたまる。
弥次郎兵衛といえば、国元で習い覚えた府中名産の油絵など描いて、その日暮らしの気ままな暮らし。たたき納豆アサリのむき身、売り屋が通るたび呼びこんで食ってしまえば、ビタ一文残らない。田舎から着続けの綿入れは、袖から綿がはみ出ても気にもせず。さすがに見かねた近所の飲み友だちが寄り集まって、さるお屋敷に奉公していた女をあてがい、われ鍋にとじ蓋をこしらえた。女が犬の口のように開いたほころびもふさいでやり、マメにめんどうをみてやれば、弥次郎も女房の機嫌をとって早く寝るようになり、少しは暮らしぶりも落ち着く──そうこうして、はや十年の月日が流れた。
何年たっても山芋が鰻になる(成り上がる)わけはなく、相変わらずの貧乏暮らし。しかし、気楽な弥次郎は毎日くだらないダジャレをシャレとばし、家は近所のなまけ連中の遊び場となって、五合徳利の寝姿が流しから消えることなく、ベコベコ三味線の音にミソも腐りそうな唄を歌う日々──。
そんなある日。
主人の弥次郎は留守とみえ、女房のおふつが流しで明日の仕込みをしている。そこへ隣の家の女房 “おちょま” が、細帯に前かけ姿で突き出た尻をゆらしながら裏口から顔を出した。
「もし、おかみさん。醤油があれば、少し貸しておくんなせぇ。ほんに夕べは、でぇぶ(だいぶ)にぎやかでござりやした。わっちらがとこの酔いどれをみなせぇ、まだ帰りゃせんわな。このあいだの晩、夜中に帰って来て長屋の入口の戸を割れるように叩いたと、大家のおかみさんがごてぇそう(ご大層)な小言をいいなすったが、わっちらのノロマどのもノロマだが、あのおかみさんも、あんまりじゃござんせんか。だいたい家賃の一年や二年溜めたって、一生やらずにおきゃしめえし。それをやかましく言うくらいなら、ドブ板の腐ったとこでも、どうにかすりゃいいのに。犬のクソもてめえのとこばかりさらって、長屋のもんは何だと思っているのやら。のう、おくんさん。」
おちょまが向かいの家のかかしゅ(かかあ)に声をかけると、上り口に片足下ろして子どもに乳を飲ませていた女房 “おくん” が出て来た。
「もし、あんまり大きな声でそんなことを言いなさんな。奥のハゲおかみが、今、手水場に行ったよ。あのおしゃべりは、大家のおかみさんにいつもおべっかばかり使って、長屋のことをどうした、こうしたと、よけぇなお世話じゃねぇか。
それに聞きなせぇ。この間からあそこの家に来ている居候は、あのかみさんの妹だというこったが、なに、あれがお屋敷に奉公していたとは聞いてあきれる。見りゃわかるが、ありゃあ、手に負えねぇくわせ者だよ。一昨日もどこか下谷のお屋敷へ挨拶に行くといってめかしこんで出て行ったが、なぁに、そこの隠居さまへ妾に行くので支度金が七両きたとさ。笑わせるじゃねぇか、あのツラで妾とはあつかましい。わっちもこの額のハゲがなくて、耳の後ろのタンコブがもちっと小さけりゃ妾にでも出て支度金をとるのに、ハハハ。
おふつさん、弥次さんはまだかぇ。おやおやウワサをすればカゲだ。それ、旦那のお帰りだよ。」
おちょまとおくんの二人が奧へ引っこむと弥次郎が帰ってきた。
「ええい、この犬めは決まっておらがところの裏口で寝ていらぁ。おふつ、茶漬けの用意はできてるか。」
「おや、おめえ、酒ばっかでおまんまはまだかぇ。」
「知れたこと。居酒屋へは行ったが居メシ屋へは寄らなんだ。」
「喜多八さんのところから、なんでたびたび呼びに来るのだぇ。」
「おれに金を貸してくれとよ。」
「おや、バカらしい。どうしたのだぇ?」
「あいつめが色街にでもハマったようで、親方の金をチッとばかり使いこんだらしい。その尻が割れる(バレる)と失敗るのはあたりめぇだが、今失敗っては都合が悪いという。なぜだと聞いたら、あそこの番頭めが、このあいだ頭へ悪い気が差しこんで、頭がシャキッとなって死んじまったらしいが、親方も親方で、年寄りのくせに若くて美しいかみさんを持ったもんだから、毎晩励みすぎて、もう今日か明日かと、これもすぐめでたくなるのはまちげぇねぇ。それで、もしそうなれば、喜多八めがその後家といい仲になる約束があるという。なるほど、そううまくいけば、あいつめはお釜を興す(財を作る)話だが、おいらにとっても悪い話ではねぇ。どうかここで失敗らさねぇようにしてぇものだが…まぁしかたがねぇ。
ときに飯にしよう。なんぞおかずはねぇか。」
「アサリのむき身のおから汁さ。」
「なに、刀の抜身が食われるものか。しかしこいつも切らずとあらば気づけぇなしだ。」