<解説>
『風流志道軒伝』は、当時江戸で大人気だった講釈師、深井志道軒の伝記です──が、中身はすべてフィクション(デタラメ)です。活躍中の人気講釈師の生涯をかってにでっち上げるという荒技を使った本ですが、このデタラメさは江戸っ子に大ウケして大ヒットをとばしました。
平賀源内について
作者は、江戸中期に活躍した平賀 "エレキテル" 源内です。
エレキテルのイメージがあまりにも強烈すぎて、奇抜な発明家のように語られることの多い源内先生ですが、じつは博識多才な人で──ざっと「ウィキペディア」からコピペしただけでも、
『本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家』
という肩書きを持ちます。蘭画とは油彩の西洋画のことで、源内先生が描いた日本初の油絵とされる「西洋婦人図」が残っています。江戸でやっと浮世絵が誕生したころにこの絵を描くとは、源内先生なかなかあなどれません。
長崎への遊学経験もあり、科学知識も豊富な源内先生ですが、学者というよりは、どちらかというと実践で科学を応用していくタイプだったらしく、鉱山開発や織物・陶器などの産業分野で才を発揮しました……が、ことごとく失敗しました。特に鉱山開発では多額の損失を出してしまい、世間からは山師(ペテン師)扱いされてしまいます。
科学と技術を結びつけて産業を興すという、まるで19世紀の世界を先取りするような発想で次から次に新しい事業に手を出していきますが、江戸なかばの日本ではまだ早すぎたようです。結局どの事業も実を結ぶことはありませんでした。
日本で殖産興業が奨励された明治の世に生まれていれば、きっと輝かしい実績を築けたであろう100年早すぎた大山師…大天才、それが平賀源内です。
世に受け入れられないウップンが溜まっていたのか、最後は酒に酔って人をあやめてしまい、獄中で亡くなりました。享年51歳。
かねてから親交のあった杉田玄白が葬いましたが、墓所には玄白が最後に源内先生に贈った言葉が残されています。
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」
(大意:ああ非常の人、非常を好み非常に生きて、とうとう非常に死んじまった)
盟友、玄白のこの言葉こそ、平賀源内の生きざまといえます。
失敗続きの源内先生ではありますが、もっとも成功した輝かしい功績といえるのは、じつは文筆家としての側面です。
宝暦十三年(1763)に『根南志具佐』という作品と、本作『風流志道軒伝』を立て続けに出版し、江戸で大ヒットをとばしました。さらに、人形浄瑠璃でも数々の作品を手がけ、『神霊矢口渡』という、後に歌舞伎にもなって現代でも上演されることのある傑作を残しています。
しかし、当時はまだ職業作家というものが確立しておらず、いくら本が売れたところで印税はおろか原稿料さえまともにもらえない時代です。作家活動は、源内先生にとっては副業にもなりません。それでも多くの傑作を生み出せたのは、源内先生の作家としてのサービス精神のたまものといえるでしょう。それに、歯に衣を着せず、世相──とくに学者や医者、坊主などをめった斬りにしていく「平賀ぶり」と呼ばれた辛口スタイルは、アカデミズムに認められないウップンのはけ口だったのかもしれません。
江戸初期の出版文化は上方を中心に発展しますが、やがて江戸の町の隆盛とともに江戸っ子文化が花開くと、江戸発の江戸オリジナル作品がもてはやされるようになります。江戸中期には、講談師などの口調をまねた江戸弁丸だしの、笑いでもって社会を揶揄する「談義本」が人気を集めました。『風流志道軒伝』もその談義本のひとつとして出版されましたが、小気味よい世相諷刺に加えてストーリー的にも楽しめる面白さは、それまでの談義本とは一線を画し、江戸っ子の心をつかんで大ヒットをとばします。
このヒットを受けて、源内先生の作品はその後の多くの作家に模倣され、やがて笑いと諷刺のきいた「戯作」というジャンルが生まれました。平賀源内は、戯作の開祖とされます。
さらに戯作は、徐々に諷刺部分がそぎ落とされ、よりフィクションとして純化していくことで、笑いに特化した黄表紙(大人向け絵草紙)やストーリー性を重視した読本などの江戸の大衆文学を生み出しました。
日本には、平安の昔から数々の文学作品が残されていますが、それは一部の才人たちの遺産でしかありません。大衆のために多くの作家が本を出版し、大衆がこぞって楽しむ──現代にもつながるこの出版文化の成熟に、源内先生は大きな貢献をしているのです。
サービス精神にあふれ、読者をグイグイ引き込む「平賀ぶり」は、座敷芸まがいの見せ物でしかないエレキテルなんかより、ずっと評価されるべき源内先生の本領です。職業作家というものが確立した明治の世に生まれていれば……。生まれるのが、ホント100年早すぎだよ、源内先生。
『風流志道軒伝』について
この作品は、講釈師・深井志道軒の架空伝記です。話はまったくのデタラメですが、志道軒は実在しており、浅草寺の境内に小屋を構える人気講釈師でした。木の棒(男根を模す)で机を叩きながらの破天荒な語りが狂講と呼ばれて大評判。そんな志道軒の生涯をかってにでっち上げてしまった源内先生ですが、さすがに本人に無断で出版するのは気が引けたのか、出版前に志道軒を茶屋に招き、自ら朗読して作品を披露しています。気難しい志道軒の承諾を得るため、上下の正装で礼をつくすという派手な演出までした源内先生ですが、作品の冒頭で志道軒のことを "大たわけ" といっているところを読み上げたあと…ハッとして、
「あ、ここは、あとで手直ししますから…。」
と言ってごまかしたという、おちゃめなエピソードが残っています。(大田南畝『金曽木』)
源内先生は志道軒を慕い、後に書いた『痿陰隠逸伝』という怪書の中では、他界した志道軒を先師と仰ぎ、自らを門人の悟道軒と称しています("四"道軒の次の "五"道軒)。
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この『風流志道軒伝』は、志道軒の伝記にからめて当時の世相をぶった斬っていきますが、とくに為政者や儒学者などのエリート層への攻撃は痛烈です。
徳川幕府は儒学を重んじましたが、どう考えても儒学のもととなる孔子の教えと幕府は、水と油であり決して相容れません。国民の大多数を占める農民からの搾取によってしか成り立たない幕府は、為政者の徳でもって民を導くという孔子の理想にはとても及びません。それでも儒学が国学のように奨励されたのは、一部の儒学者たちが聖人の教えをねじ曲げて、幕政の正統性を示すための根拠として利用したからです。儒学は、江戸において庶民の道徳観の形成には役立ちましたが、一部のエリート層にとっては権力に媚びるための道具でしかありませんでした。
これには源内先生も激オコです。作中では、諷刺というオブラートをとっぱらって直接的にめった斬りにしていきます。その怒りは、現代人にとっても思わず共感してしまうような爽快感がありますが──これは、いくら政治体制が変わろうと人の世の本質は変わらないということなのでしょう。
「言ってるコトと、やってるコトがぜんぜんちげーじゃねーか」
為政者やその取り巻きへの怒りは、いつの世も同じですね。
さらに作中では、江戸の町の一年の風景が、当時の庶民の暮らしぶりとともに軽快な調子で語られます。
江戸では、季節に合わせてさまざまな行事がありました。多くは宗教がらみの行事なのですが、宗教的な意味はどんどん形骸化され、町人が主役になることで、どんなおごそかな行事もイベント化して楽しんでました。
たとえば、仏教では釈迦が入滅したとされる2月15日(旧暦)に、涅槃会という法要が行われますが、この日は法要に合わせて寛永寺や浅草寺などの巨大山門が開放されました。なので、江戸っ子にとっては、涅槃会は山門に上って江戸の眺めを楽しむ行楽イベントです。
また、平安時代に京で人買いに連れ去られ隅田川のほとりで命を落としたとされる梅若丸の法要が、毎年3月15日に隅田川沿いの木母寺で行われます。現代にも続く梅若忌ですが、江戸では、お芝居などのフィクションで人気だった悲運の美少年・梅若丸の聖地巡礼スポットとして、たくさんの腐…婦女子が押し寄せました。
たとえどんな宗教行事であってもイベント化して浮かれ楽しむ──これは、日本人にとって不動のDNAですね。
『風流志道軒伝』は、ストーリー的には、当時よく知られていた「島巡り伝説」をベースにした冒険譚です。主人公の浅之進(志道軒の幼名)が世界中のワンダーランドを旅してまわります。
「島巡り伝説」は、中国で紀元前から記された地理書『山海経』などに載っている不思議な島々を巡るお話で、日本でも昔からお伽草子などで語られました。島巡りをする主役には義経なども当てられましたが、江戸期には鎌倉時代の坂東武者、朝比奈三郎を主人公にした「朝比奈島巡り」が絵草紙などのネタとしてよく使われています。
『風流志道軒伝』も、このお話をベースにしているのですが、ストーリーは完全オリジナルで、単なる「島巡り」のワクを飛びこえ、当時の中国、清朝乾隆帝の都・北京なども舞台となります。さらに、地名の列挙だけですが、ペルシャ、モスクワ、アルメニアなども出てきて、源内先生の蘭学者としての事情通ぶりがうかがえます。
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この作品からは、全編を通して江戸の町の息吹が感じられます。単なる記録や解説書からは見えてこないリアル江戸──庶民の風俗や生活感が鮮やかに描き出された、源内先生、渾身の一作です。
ただし、つたない現代語訳でそれがどれだけ伝わるかは疑問です。もし、ちょっとでも興味を持たれた方は、ぜひ原文を読んでみてください。そこにこそ、真の「平賀ぶり」があります。