<解説>
作者の芝全交は、江戸中後期に活躍した黄表紙(大人向け絵草紙)作家です。
絵師は、江戸きってのエンタテイナー山東京伝。
『大悲千禄本』は、不景気で千手観音が千の手のレンタルをはじめてしまうという、トンデモなお話です。たった1巻、10ページの小品ですが、黄表紙らしいギャグ満載で黄表紙のお手本のような作品です。
権威あるもの、神聖なものを俗っぽい日常の中に持ってきて笑いを誘うという手法は、現代でもマンガなどでよく使われますが、江戸でも滑稽本などのネタとしてはわりとテッパンでした。
たとえば、宝暦七年(1757)に出版された『聖遊廓』という洒落本(遊廓を題材にした小説)があります。これは「ひじりのゆうかく」と読みますが、今となっては「セイント☆ゆうかく」のほうがしっくりくるでしょう。孔子・老子・釈迦の3人が大阪新町の色街に遊び、ムダに高い教養をチラつかせながら、くだらない話に花を咲かせるという脱力感タップリの作品です。最後は、釈迦が遊女と駈落ち心中してしまい、手に手をとって三途の川を渡るという強烈なラスト! しかも、釈迦の書き置きが梵字(サンスクリット語)だったので誰も読めねぇ! というオチつきです。作者不詳の作品ではありますが「神仏もの」滑稽(ギャグ)話のスグレモノです。
他にも『奈良大仏江戸見物』という作品では、奈良の大仏さまが江戸見物にやって来たはいいが、途中の川渡りなどで旅費を使い果たしてしまい、鎌倉の長谷観音に金の無心をしたり、背の高さを利用して江戸の町で火の見のバイトをしたり……くだらなさ全開です。
この「神仏もの」ギャグ本の決定版とも言えるのが、本作『大悲千禄本』です。千手観音が手のレンタルをはじめるという話は、現代でも通用する秀逸なアイデアでしょう。
千の手を貸し出すとあって、手の欲しいヤツらがぞくぞくやって来ます。実際に手のない者(平家の侍大将や鬼の茨木童子)をはじめ、手のない(客あしらいが未熟な)女郎、字の書けない者──などなど「手が欲しい」というお題で語られる「手」づくしギャグがてんこ盛りです。
ですが、神聖なものを俗っぽく描いて笑いをとるやり方は、どうしてもその時代の風俗を色濃く反映してしまいます。なので、現代人にとってはイマイチ笑いのツボが「?」なところもあるかもしれません──が、しょせんギャグです。笑いは時代を越えると信じます(とくに下ネタ!)。
なお、タイトルの「大悲」は観音さまの別名で、『大悲千禄本』は「大根千六本(大根の千切り)」のもじりです。