2020.03.06
ご存知、弥次さん喜多さんの『膝栗毛』。衝撃のエピソード0!
著:十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)
十返舎一九による、弥次さん喜多さんの『東海道中膝栗毛』。日本でもっとも有名な江戸文学でありながら、たぶんほとんどの人が読んだことのない作品かもしれません。それでも、多くの媒体でスピンオフされているので、弥次・喜多コンビが東海道を旅する珍道中のイメージは、わりとおなじみです。
『膝栗毛』は享和二年(1802)に、まず最初の品川から箱根までが『浮世道中膝栗毛』として出版されました。これが大ヒットをとばしたので、すぐにシリーズ化され『東海道中膝栗毛(全八編)』として、弥次・喜多コンビが東海道を京・大坂まで旅します。あちこちで騒ぎを起こしながら目的のお伊勢参りもとげたふたりですが、旅はそれで終わらず、その後『続膝栗毛(全十二編)』として、金比羅さまや宮島まで足をのばし、こんどは木曽路をまわって江戸へ帰りました。
本作『発端』は『続膝栗毛』が出版されていたころに書かれた外伝です。シリーズが長く続くと、ちょっと趣向を変えてエピソード0を作るというのは、いつの時代も同じですね。
なお『発端』の最初では、喜多さんの正体も明かされます。喜多さんは、もともと陰間(男娼)で弥次さんとは深い仲だったというものですが、これは、ただの後付けのおふざけです。設定としては笑えますが、本編でも、この『発端』の中でも、弥次・喜多の男色関係を匂わすエピソードは一切ありません。二人とも根っからの女好きのスケベであり、ブレることはないです。
この『発端』は、品のないお話です。
さらに『膝栗毛』の大きな特徴として、登場人物たちのリアルな会話があります。
なお、弥次さんといえば、見栄っ張りで失敗ばかりのどうしようもないオヤジという印象が強いですが、大好きな弥次さんを一言フォローしておきます。
一九は『膝栗毛』の他にも『金草鞋』という道中記を残しています。これも当時大当りして、『膝栗毛』よりも長い22年続いたロングシリーズです。道中記というよりは観光ガイド的な要素がつよく、東北から四国・九州まで多くの名所が登場します。すべての名所に「旅」をお題にした一九テイストの小噺がついていて、当時の庶民の旅のようすが垣間見れる楽しい作品です。お江戸のベストセラー
東海道中膝栗毛発端
画:喜多川式麿(きたがわ しきまる)
刊行:文化十一年(1814)(底本は明治期)
版元:西村屋与八(底本は江島伊兵衛)
底本:国立国会図書館デジタルコレクション『東海道中膝栗毛発端』
<解説>
最後の刊が出たのは文政五年(1822)。ほんの思いつきで江戸を旅立った弥次さん喜多さんですが、結局足かけ21年の長旅になってしまいました(といっても、作中の経過時間はひと月ぐらいです)。
『発端』は、弥次・喜多が江戸を旅立つまでの前日譚になりますが、ここで初めてふたりの正体が明かされました。
「弥次郎兵衛とは何者?」
一九は、自信を持って答えています。
「何でもなし。弥治、ただのオヤジなり。」
当時大人気だった小説の主人公が何てことのないただのオヤジというのは、じつは『膝栗毛』シリーズの重要なポイントです。ただの町人オヤジが主人公の小説を、ただの庶民が先をあらそって読み、笑い、楽しむ──これは19世紀初頭という時代性を考えれば、きわめて画期的なことです。
当時、世界をみれば活版印刷が全盛で、多くのベストセラーが生まれ、小説が単なる『読み物』からフィクションとしての高度なテクニックを駆使した『作品』へと進化した時代です。しかし、まだまだ特権階級やインテリ層が、字の読める人(つまり特権階級やインテリ)を対象にしたものでしかありませんでした。たとえば、ちょうど『膝栗毛』と同時期の1813年に、イギリスでジェーン・オースティンの『高慢と偏見』が出版されています。今も世界中で愛され、何度読んでも読みはじめたら止まらない楽しさにあふれた作品です。ですが、作者のオースティンも小説の登場人物たちも、みなジェントリと呼ばれるイギリスの上流階級であり、当時の読者層もまた同様でした。イギリスの庶民──パン屋のオヤジや靴屋のかみさんが『高慢と偏見』を読んで楽しんだとはとても思えません。
そんな時代に『膝栗毛』は、ただのオヤジを主人公とし、それをただの庶民が読んで笑いころげたのです。丁稚や女中などの奉公人から、大工の熊さん、茶屋のお仙ちゃんまでが夢中になる──そんな大衆小説が大ヒットした、というか大ヒットできた当時の江戸のふところの深さには驚きです。
町人文化が花開き、庶民の識字率が高く、文化の担い手が大衆だった江戸だからこそ可能な作品、それが『膝栗毛』であり、日本人として自慢の金字塔といえるでしょう。
しかも、現代的な価値観でみれば、とても笑ってすまされないような内容も一部あります。ですが、200年以上前、江戸の町人文化の最盛期とされる文化・文政(享楽の化政文化)期の作品です。時代性を考慮してお読みください。
『膝栗毛』をはじめ一九の作品を語る上で欠かせないキーワードが “下品” なのです。下品さを気にしていては、一九の作品は読めません。それでも、その下品さこそが当時大ウケした理由であり、あっけらかんとした下品の連発は、笑いこそすれ不快感はわきません(人によるとは思いますが)。言ってしまえば「爽やかな下品さ」。これが一九テイストです。
そうはいっても、教科書にも載っている『東海道中膝栗毛』なので、興味をもった少年少女が読んだときのことを思うと、ちょっとトホホ…な感はあります。
会話中心で進行する展開の中で、方言丸出しでしゃべりまくる登場人物たち、それにちゃきちゃきの江戸弁で渡り合う弥次さん喜多さん。土地ごとに変わる個性豊かな会話の洪水からは、情景描写がほとんどないにもかかわらず、その場の風景が浮かんでくるようなリアルさがあります。これは、セリフというものに徹底的にこだわった、一九マジックといえるでしょう。
じつは『膝栗毛』本編を読むと弥次さんの博識さにはビックリさせられます。どんな状況でも、どんなネタを振られても、一歩も引くことなく渡り合い、すべてをシャレとばしてしまう弥次さんは、じつはただのオヤジではないのです──しかも、そのハイセンスなシャレについてくる当時の江戸っ子もまた、ただ者ではないということなのでしょう。
その中の「江ノ島・鎌倉編」をこのコーナーで紹介しているので、興味のある方はぜひ、どうぞ!
『方言修行金草鞋 江之島鎌倉廻』