戻る

お江戸の鎌倉

はじめに

お江戸では、妄想の鎌倉が大人気でした

江戸時代、狂躁の町人文化が暴走した花のお江戸で、庶民の一番のお楽しみは、歌舞伎や浄瑠璃などのお芝居でした。
芝居小屋では、いつもさまざまな演目が上演されていましたが、その中でも特に江戸っ子の心をつかんだのは、鎌倉時代を題材にしたお芝居です。
市川団十郎の「歌舞伎十八番」でも、特に人気の高かった『助六』『勧進帳』『しばらく』『景清』などは、全て鎌倉に関係した演目です。

現代での「幕末」や「戦国」のように、江戸では「鎌倉(時代)」が人気でした。
当時は(あたり前ですが)「幕末」は存在せず、「戦国」は、まだ戦国武将につながる藩主が国を治めている時代です。お家の立派さを誇示するための軍記物などはありましたが、大衆演芸のネタとして楽しむのは、ちょっとはばかられる状況です。
そんな中、江戸にあっても遠い昔となっていた鎌倉時代の武者たちが、フィクションの中の主役となりました。

大衆の歴史ブームに火をつけるのは、いつも(妄想)キャラクターです。
江戸でも、鎌倉時代の武者たちが、それを演じる役者と重なり合って人気者となり、やがて「助六(曾我五郎)」「景清」「朝比奈」などの大ヒット歴史キャラが定着することで、お江戸の中の「鎌倉」は、史実と虚構、現実と妄想が入り乱れたファンタジーと化しました。

助六
助六
『当盛見立三十六花撰 江戸桜花川戸助六』豊国
国立国会図書館デジタルコレクション

景清と重忠
景清と重忠
『景清 秩父庄司重忠・悪七兵衛景清』豊国
国立国会図書館デジタルコレクション

この「鎌倉」では、景清が頼朝をしつこくつけ狙い、それを畠山が三度見逃し、梶原は手水鉢を一刀両断、曾我兄弟は十人斬りで大暴れ、阿古屋は責められて琴を奏で、人丸は父を偲び、ピンチのときには権五郎が「しばらく」の一声で、どっこいと現れます。
さらに、そのファンタジーの「鎌倉」を、こんどは黄表紙などの滑稽本がパロディ化して、ついには、鎌倉時代の武者たちが江戸の町をウロつき始めます。頼朝公が深川の色街で芸者をあげて大はしゃぎすれば、畠山さんが吉原の遊女七里ななさとにうっとりし、梶原の親父どのは朝比奈くんと連れ立って浅草のおもちゃ屋をひやかして歩くのです。

なんとも、カオスな「鎌倉」がお江戸の中にありました。

ヤバさをごまかすために、鎌倉を使います

「鎌倉」は時として、事実をカモフラージュするためにも使われました。幕府がらみのちょっとヤバめの話でも、鎌倉を舞台にすることでフィクションぽくしてしまいます。

『忠臣蔵』は、今でこそ史実に即して "赤穂浪士 vs. 吉良上野介" として語られますが、江戸期の浄瑠璃や歌舞伎では、鎌倉を舞台にした話にすり替えられていました。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、お上もからんだ大事件です。さすがに、そのまま芝居にするわけにもいきません。赤穂事件物の集大成として完成した『仮名手本忠臣蔵』は、室町初期の鎌倉を舞台に、『太平記』の世界を借りて "塩冶判官えんやはんがんの旧臣 vs. 高師直こうのもろなお" として上演されました。
この『忠臣蔵』では、鶴岡八幡宮の大銀杏をバックに幕が開き、大詰めの討ち入りでは旧臣たちが舟に乗って稲村ヶ崎へ上陸するという、鎌倉ライクな演出が見られます。

忠臣蔵 大序
『忠臣蔵 大序』歌川広重画。鶴岡八幡宮の大石段、舞台下手には大銀杏。
Wikimedia Commons

江戸期は、娯楽としての大衆本の出版も盛んでしたが、これは時として、お上の風紀取締まりの対象になることもありました。
江戸時代中ごろに、遊郭を題材にした「洒落本」や、それまで子ども向けだった絵双紙を大人版にした「黄表紙」が登場し、江戸は出版ブームに沸きます。
ところが、次々とヒット作が生み出される中、老中・松平定信による(江戸っ子もうんざりの)質素倹約をかかげた「寛政の改革」が始まり、そのあおりを食って不遇な扱いを受ける作家もいました。

黄表紙作家の一人、朋誠堂ほうせいどう喜三二きさんじは、「寛政の改革」の最中に、まさにその改革を痛烈に風刺した『文武二道万石通ぶんぶにどうまんごくどおし』という作品を発表します。
「鎌倉」をカモフラージュに使い、松平定信を鎌倉幕府の御家人・畠山重忠にみたて、登場する鎌倉武士たちの腰のくだけるギャグによって、当世のふぬけた武士と文武奨励策をおちょくって見せたのです。しかも、頼朝にみたてて将軍家斉いえなりまで登場させました。
どうも、これはまずかったようです。庶民には大ウケしましたが、武士階級だった喜三二は上司からの圧力を受け、結局この作品によって作家としての筆を折るはめになりました。

文武二道万石通
『文武二道万石通』朋誠堂喜三二。
国立国会図書館デジタルコレクション

喜三二と同時期に活躍した、江戸きってのエンタテイナー、山東京伝さんとうきょうでんも、遊郭をあつかった洒落本三部作で「発禁処分&手鎖刑」の憂き目にあっています。
品の良い京伝先生のこと、別にどぎつい描写やヤバい表現は何ひとつないのですが、色街の風景をリアルに浮かび上がらせ、読者を遊里へと誘なう京伝マジックが、お上の神経にさわったようです。

この発禁本のひとつに『仕懸文庫しかけぶんこ』という作品があります。江戸深川の一夜の情景を、岡場所(私娼街)ならではのお作法や、風俗をからめて叙情豊かに描いた作品です。
深川が舞台の話なのですが、実は作中に「深川」はおろか「江戸」という地名すら一切出てきません。
扉のタイトルは、
「仕懸文庫 大磯廓中こうちゅう光景 鎌倉遊子伝記」
となっていて、文中にも、
「鎌倉のたつみにあたって一つの女肆いろさとあり、大磯と名づく」
とあります。つまりこの話は「鎌倉の東南にある色里、大磯」が舞台なのです。もちろん、これを実際の大磯だと思う江戸っ子はいません。だいたい、実際の大磯は鎌倉の西側にあります。巽(東南)と言えば、江戸の巽(辰巳)の方角にあって、辰巳芸者で知られた深川のことなのです。
風紀取締まりの風が吹く中、「この話はフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません」という言い訳のために鎌倉・大磯が利用されました。まあ、何の役にも立ちませんでしたが。

仕懸文庫
『仕懸文庫』山東京伝。
国立国会図書館デジタルコレクション

鎌倉は歴史に記憶された古都です

ファンタジーの「鎌倉」が大流行りとはいえ、江戸っ子は、歴史上の鎌倉もよく知っていました。子どものころから『太平記』や『平家物語』『源平盛衰記』などで語られるエピソードに親しんでいるので、むしろ現代人より鎌倉時代の歴史に通じていたのではないでしょうか。
徳川家康が、頼朝の鎌倉幕府をリスペクトしたこともあって、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』もよく知られていました。

江戸当時の鎌倉は、半農・半漁業の寒村です。鎌倉幕府の栄華は、すでに遠い過去のものでした。しかし、歴史の中の鎌倉は、黎明期の武家政権を担った坂東武者たちのパワーとエネルギーに満ちあふれ、輝きは色あせません。
古都としての歴史は、京や南都(奈良)にはかないませんが、雅な都より荒っぽい坂東武者が主役だった鎌倉の方が、江戸っ子たちの気性に合っていたような気がします。

江戸においても、現代でも、鎌倉は「歴史に記憶された古都」なのです。

鎌倉観光、事始め

江戸当時のリアル鎌倉を、最初に広く紹介したのは徳川光圀(水戸の黄門様)です。
光圀は鎌倉を訪れたときに、自らが調査した結果を『鎌倉日記』としてまとめますが、歴史好きの黄門様はそれでも飽き足らず、後に家臣を派遣して8年がかりで鎌倉を調査させ、全8巻からなる『新編鎌倉志』を完成させました。これは、貞享二年(1685)に出版されますが、その後もたびたび版を重ね、明治期まで200年以上にわたって刊行され続けました。超々ロングセラーです。
『新編鎌倉志』は、当時の鎌倉を、歴史的な検証も含め詳細に記録した地誌ですが、文献史料としての価値の高さから、後に刊行された多くの鎌倉ガイド本で参考にされました。最近のおしゃれ鎌倉ガイドでさえ、この本の内容が(書いてる本人が気がついているかは別にして)散見されます。

新編鎌倉誌
『新編鎌倉誌』明治三十四年版。印刷当時でも200年以上前の版木を使用しているのですが、かなりきれいな紙面です。

江戸期は、「関所破りは重罪」などのイメージが強く、庶民は自由に旅ができなかったように思われがちですが、実はそうでもありません。
関所の主な役割は、「入鉄砲いりでっぽう出女でおんな」の言葉が示す通り、江戸へ入ってくる鉄砲と、江戸に人質の意味合いで置かれた大名の妻子が無断で江戸から出て行くのを防ぐことでした。関所で、庶民の往来を厳しく取締まった様子はみられません。というか、江戸の250年間で、関所破りで実際に磔にされたなんて例は、国定忠治以外知りません。
財力や生活面の余裕などの個人的な理由は別にして、庶民の旅を制度的に阻害する要素は、江戸時代にはなかったと思います。

各街道もよく整備され、東海道だけでも旅籠は数千軒もありました。江戸も後半に入ると、全国各地の名所図会ずえがブームとなり、観光用の絵地図なども数多く刷られました。
江戸っ子は、わりと旅を楽しんでいたのです。江戸近郊でも、大山や江ノ島などの人気観光スポットがありました。箱根七湯はいつも湯治客で賑わっていたし、弥次さん喜多さんもめざしたお伊勢参りは、江戸っ子憧れの観光旅行です。

鎌倉も、江戸から一日で来れる手軽さもあって、よく観光客が訪れたようです。歴史の中に埋もれてしまった一寒村ですが、それが逆に江戸っ子のノスタルジーを刺激したのかも知れません。雪ノ下と長谷には旅籠が並び、絵地図を使って名所講釈をする茶屋もあり、寺社を案内して回る専用のガイドもいました。
「歴史にふれる鎌倉への旅」は、「八景島の絶景と船遊び」「ご利益満点!江ノ島の弁天さま」とセットで回るのが定番コースだったようです。

江戸っ子の旅は、パワー全開です。旅に癒しなど求めません。
江戸末期の商家の妻女が記した、八景島、鎌倉、江ノ島を巡った紀行文が『鎌倉市史-近世近代紀行地誌編-』に収録されているのですが、その行程をざっと見てみると、初日は、江戸を発ってから大森、川崎あたりでさんざん遊んだあげく神奈川宿へ入り…

〈二日め〉
神奈川宿を早朝に発って、保土ヶ谷から険しい山道を通って金沢入り。能見堂などの名所を回り、はまぐり採りで地元の子どもたちと戯れ、網船遊びをしたあと、山に登って絶景を楽しみ、東屋(旅館)に宿入りして、捕った魚に舌つづみ。
〈三日め〉
八景島で瀬戸明神、琵琶島の弁財天、金龍院にお参りしたあと、朝比奈切通から鎌倉に入り、杉本寺、荏柄天神、大塔宮の土牢(鎌倉宮)、鶴岡八幡宮(当時はまだあった仏教伽藍も含む)、大江広元・島津忠久の墓、丸山稲荷、十二院(二十五坊跡)、青梅聖天、新居の閻魔(円応寺)、建長寺、杉ヶ谷弁天(現在は廃寺)、長寿寺、西明寺(現在は廃寺)、東慶寺、円覚寺、浄智寺、化粧坂、景清の土牢、海蔵寺、英勝寺、寿福寺、実朝の墓、岩屋堂、段葛を通って琵琶橋を曲がった辺りで日が暮れて、長谷の三ッ橋屋(旅館)まで行って、やっと宿入り。
〈四日め〉
光則寺、大仏さま、長谷寺、佐助稲荷にお参りし、権五郎神社、星の井、極楽寺から稲村ヶ崎、七里ヶ浜を抜け、腰越で満福寺、龍口寺にお参りし、舟渡りして江ノ島へ。江ノ島中を(エスカーなしで)見て回り、岩屋を参詣、稚児ヶ淵で海人にアワビ、サザエを獲ってもらい、江ノ島の入口まで戻って、恵比寿屋(旅館、現在も営業中)へ宿入り。

…これは、現代人ではあり得ないです。はとバスだってこんなに回りません。ところが、この女性は観光を十分楽しんでおり、途中で歌まで詠んでます。
お江戸の旅は、かなり欲ばりでした。

現代の鎌倉も、東京近郊からの気軽な観光地として毎日賑わっていますが、その原風景は、すでに、江戸時代に形作られていたようです。

材木座書房

ぴーちょ

楽しい鎌倉